食育

2007年5月18日 (金)

知的環境(6)

 子供たちに「食」を通じて大切なモノとは何ぞや、を残そうと日々活動されている方々も多数おられる。 心強いばかりだ。 埋もれて行く伝統や知識・善き慣習はネット社会の一部でもその拠点を増やしつつある。

 野菜を通じて社会とかかわる方、料理を通じて伝える方、アクセサリーを通じて表現する方、マスメディアを通じて科学を解説する方…様々な方々との輪が繋がりつつある。 いかにしてこれらの軌道を合致させ、同期させるのか。 

 決して見失うことのない目標と、そこに導かれる人としての命。 「食育」という命題を共通テーマに集う英知の結合体を我々は創造しなければならないが、地球の温暖化やエネルギー問題、経済的な繁栄と知的水準の均質化といった相反する課題を克服しようとする機能は、その始点を平面と時間軸が曖昧になってしまった現在においては特定することが不可能なようにも思われる。

 原始の混沌状態(カオス)からアメーバが増殖していったように、我々の思惟はいつかどこかで結合し生体細胞としての機能を持つようになるであろう。 各個が大切に育む知性と物質的成果は、いずれ同じ生命体として子孫に受け継がれてゆくと信じたい。

 このSynapseが形成される頃には、単一方向性のみを維持するネットワークではなく、もっと複合的かつグローバルなソーシャル・ソースとしての核に成長してくれることを期待している。 先ずはこの趣旨に賛同し、積極的にご参加いただける方々を募っている。 各人のお知恵を拝借したい。

 

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2007年5月17日 (木)

知的環境(5)

 しばらく前の話だが、テレビの公開討論番組で(朝まで続くアレでご存知の方も多いと思うが)、元教師のご婦人~多分昭和一ケタか戦前生まれとお見受けした~が、“ 修身 ”の教科書を取り出して「これを復活させなければ日本は駄目になる!」と力説していた。 私としては拍手喝采、講演会なんぞが開催されるならばぜひ一度お話を拝聴したいものだと思って見ていると、そのコメンテーターの後ろに座っていたスタジオ参加視聴者(20代後半から30代半ばか)の一団の挙動と表情に、ほどんど憎しみに近い感情を覚えた。

 声にこそ出しはしていないが、その苦笑的表情と態度には {そんな時代遅れな、しかも戦前から引きずってきた尋常小学校の教科書なんか持ち出して…バカバカしい} といったものが読み取れた。 他人の意見を正確に汲み取る努力もせず、ただ“古い”の一言で簡単に却下し、なおかつ嘲笑するかのような人々。

 団塊の世代の子世代である。 あなたたちこそ世間から糾弾されるべき人たちではないのか。

 イジメ、基礎学力の低下、精神病の蔓延、免疫性の低下…非常に多くの問題が爆発的な増加をしている現在になおかつ 「食育」 を敢行しなければならない重さ。

 すべての問題の根源として 『道徳の欠如』 を挙げたい。 原因は全てそこに集約され、解決の道しるべもそこに回帰しなければ見出すこともできないであろう。

 日教組はそのイデオロギーの本質的誤謬を検証することなく、戦後の長きにわたり道徳教育の破壊を続けてきた。 子供は日本共産党の人質となり、気づいていても口出しできなかった親と、見て見ぬフリをしていた中央官僚と地方の小役人。 

 廃墟から立ち上がり経済的な復興に尽力してきた方々には感謝しているし、今現在私がこうして恵まれた環境で暮らすことのできるのも、先人のお陰である。 

 だが一方で、頂上の山小屋にすでに到着し、余裕をもってくつろいでいる団塊の世代から渡された荷物を背負い、今にも崩壊せんばかりの険しい山道を土砂降りの雨に震えながら「見えない頂上」を目指して歩み続ける…そんな気持に暗く覆われていることも確かだ。

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2007年5月16日 (水)

知的環境(4)

 相互に話し合いをするだけでは食料を手にすることはできない。 労働による生産物の物々交換、これが我々の生活の基本だ。 生産物は等価でなければ取引は成立しない。 文明によって貨幣が考案され、人々はそれを基準に生産行為を行う。
 この論理では生産物は貨幣に置き換えられ、また逆の道筋をたどり同じ生産物を手に入れる事が出来るはずなのだ。

 しかし近年の日本はこれが不可能になっている。 理論的にもその説明は正当化しようとすれば矛盾が生じ、あるトリックが明らかになってゆく。

 知的労働を提供した場合などにおいて特に顕著なことは、労働価値を低く算定提示し労働提供を受けた側がそれ以上の価値≒金銭を受け取るケースだ。 予想外にその労働が高い価値を生ずる場合もあるだろうし、雇用者側が労働提供の機会を創出してはじめて生まれる場合もある。 ここまでは故意による搾取とは言い難い。

 問題はその富を労働者側に再分配する機会が与えられるかなのだ。 その利益高は実績として積み上げ済のものであるから、再度依頼する場合はそれに応じた配分がなされるべきことなのだが、これを隠してしまう。 つまり詐欺をするのである。 これが労働搾取と呼ばれる行為なのだ。

 本来持つべき貨幣的価値から低い価格が市場に出回れば、競争の原理でさらに低いものが要求され、終末部分にそのシワ寄せが来る。 

 つまり正当な対価を支払わない者は最後に自分の首を絞めることになるのだ。 消費者側にも問題があると表明した訳はここにある。 過剰な鮮度や低価格の要求は結局のところ質や継続性の低下にしかつながらず、労働価値の低下を自ら創出することに他ならない。

 飲食は調理・提供を自ら行えば原材料の費用のみで終わるが、他人に代行してもらう場合はその労働に対しても対価を支払わなければ、欲しい料理は胃袋に収まることはない。 さらに誰もが簡単にできるものではない場合はなおさらのことになる。

 冷暖房が整備され、テーブルに着くやいなや水やおしぼりをサービスしてくれる。 美しい写真付きのメニューブックから食べたい物を選び注文する。 おなかが苦しいほど食べ過ぎても、食器や調理器具を洗ったり片づけたりする必要もない…。

 自らの労働報酬としての金銭を支払う時、どれだけの人がどれだけの努力と時間をかけて自分に提供してくれたものなのかを計ってみる必要があるだろう。 大切に育てられた食材を丁寧に運び、知識と経験を生かした調理を行い、効率のよい栄養素として提供してくれた…その事に対する感謝の念を子供たちに持ってもらいたい。

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2007年5月15日 (火)

知的環境(3)

 企業側や雇用者側の問題ばかりをクローズアップしてきたが、消費者あるいは被雇用者の側に責がないのかと云えば大いに問題ありだ。
 先にも書いたが異常なまでの鮮度要求は、食品購入者の知識不足や科学的理解の低さから発生する。 “製造年月日”“賞味期限”“消費期限”それぞれに別の意味合いを持つものだが、特に後の二つは混同されている場合が多い。 ここ数年は賞味期限だけを表示すれば法的によいことになったため、全く問題のない時間経過をした食品までが販売者はもとより消費者によって廃棄されている。

 天然資源もなくさらに食糧自給率の低い国民が、このような愚かな習慣を当り前のように続けていることへの危惧を持つ者はいないのだろうか。 スーパーなどの食品売り場へ行くと、実に不愉快な行動を取っている消費者が多い。 牛乳や豆腐など製造日から消費期限までが比較的短い商品などは、争うように棚の奥すなわち期限が一日でも遠い日のものからカゴに入れられてゆく。 これらの行動は安全性の追求や食味の追及から生まれたものではなく、ただ単に自らの管理下におけるリスクを先延ばしにする為だけにおこなわれている。

 某有名全国紙の「読者の声」欄においても同様の指摘をされておられる方がいた。 正直ホッとしたものだ。あまりに周囲の状況が私の思いとかけ離れているために、もしかしたら自分の考えは誤っているのか…と恐れていた部分があったからだ。 その方もやはり「公益性や道徳といった概念の欠如がもたらす弊害だ」としてお嘆きになっておられた。

 マスコミの情報量の違いもあるし、インターネット社会の口コミが程度の低い風説的結果をもたらしている場合もあり、一概に消費者責任の範疇と結果を定義することは難しい。 だがこういった事象の蔓延が教育水準の低下とともに進行していることに気付いている識者もいるはずだ。

 ヒトである前に、地球上の生物として食べてよいもの・いけないもの、ヒトとして摂取すべきもの・すべきでないもの、文明人として楽しめるもの・そうでないもの…この違いを子供たちに教示しなければなるまい。 簡素な表現であれば

     ・ 毒なのか 食べられるものなのか
     ・ 栄養成分なのか 健康を害するものなのか
     ・ 楽しめるものなのか そうでないものなのか

ということである。

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2007年5月14日 (月)

知的環境(2)

 食品会社による長期的かつ組織的な犯罪事件が頻発している。 数年前に雪印という大手老舗が製造工程の安全管理を怠り、長い間マスコミに話題を提供した。 過去にも食品への異物・毒物の混入事件がいくつかあったが、事件性のあったものは少なく、諸認識の不足による“過失”的意味合いのものが大多数を占めていた。

 近年この手の事件事故で顕著な問題は、それらが組織的に行われたり意図的に操作されたものが急増している点にある。 雪印の事件以来、大規模なプラントによる製造と大量販売という部分に大きな注目がなされ、消費者保護の観点での安全管理が改善される動きが拡大すると思っていた。

 ところがだ、BSE問題に端を発した「食肉産地偽装」、生菓子製造会社(これも老舗メーカーの不二屋)による「細菌検査記録の偽造と隠ぺい」など、倫理感の欠如した事件が後を絶たない。

 なぜだろう…

 経営成果至上主義、といえば恰好が良いがもっと解りやすい表現は「カネ儲け鬼畜」なのだ。 製造現場の労働者からの正当な評価賃金搾取に始まり、消費者にまで虚偽の表示による詐欺行為。 団塊世代の経営者たちはその事に対する“うしろめたさ”“責任感”“誇り”といったものを、全く持ち合わせてはいないのだ。
 犯罪の度合いには変わりはないが「持っていたのにやってしまった」ことと「何も考えずにやった」ことでは意味合いが全く別のものになる。 

 仮に多少でも倫理・道徳心があれば、先人の失敗は繰り返さぬであろう。 これはそこに至るまでの間に何も考えずに経営者としての職務を執り、対岸の火事として傍観しているからこそ発生し続ける犯罪事件なのだ。
 彼らにとってプライドとか正義感というコトバは、自らの怠慢と社会的責任からの逃避行為を裏付ける引き金になる存在なので、決して認めようとはしない。

 それどころか、その結果責任と経済的負担を立場の弱い次世代に転嫁し、曖昧な問題解決と故意による遅延あるいは瞠目によってのみこの場を切り抜け、火の粉を振り払っている。

 

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2007年5月13日 (日)

知的環境(1)

 食に関する知的発達は、生活する社会環境に依存する部分がほとんどを占有している。 一個の人間にとって一番身近で小規模な社会が家庭あるいは家族、次が職場-学校、地域、地方、国家の順であろうか。
 これに時間軸が絡んでくる。同じ環境であっても時代の変遷、テクノロジーの変化、気候的潮流の変動、紛争の有無などによって、その根本からして変貌を遂げてしまうことも過去に我々は体験してきたはずだ。

 誰にも予測のしようがない事柄だと言って無軌道な享楽を貪るばかりでは、修復できたはずの失敗も再び重ねられ次第に強固な岩盤となりヒトの力ではコントロール不可能なものになってしまうだろう。
 高度経済成長のポストシーズンは、加速度的なハードウェアとソフトウェア両方の進歩が我々日本人の眼力を曇らせ、一番大切なことの維持と蓄積・修正を無視し続けてきたのだ。

 「一番大切なこと」 とは『子孫に遺す豊かな文化』である。

 豊かな文化…それはヒトとしての健康であり、ステージの高い知性・知識、より自由度の高い創造性、好奇心や知的欲求を受け止められる社会構造の事である。
 そしてそれらを実現するためにモノやテクノロジーは進歩し、次々と生み出されてゆく。

 真面目に働きさえすれば豊かな生活を得られた時代はすでに遠い。それどころか真摯に労働し周囲との協調と向上に心血を注いできた者が、利己的で狭窄な思惟しか持たないある世代と団体によって見事に踏みつぶされ、片隅に追いやられる事態が発生している。彼らは社会の実権を握る時の訪れとともに、保身と社会資産の私物化を見事なまでに正当化し、義務を放棄してきた。

 その結果の現在の日本社会である。

 道徳の教育を家庭と学校で消去し、自らの所業の是非判断を他人から奪い取ったその悪意。 彼らの犯罪をこの章で明らかにすることで、これからの「食育」がどうあるべきかをあぶり出してゆきたい。

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2007年5月12日 (土)

偏食(6)

 畜肉に比べて魚介類はその生物的種類も多く、系統的理解をするのはやや困難か。だが居住する地域に限定した機会が与えられるのであれば、また別の話だ。
 この時期にこんな魚が獲れ、その時期にはどんな魚が姿を現し、と自然界の移ろいと共に様々な食材との出会いを体験できる。そこに生きる人々を知り、生業のなんたるやを体感する。

 まさに食育ではないか。

 生まれ育った土地のサカナを調理し口に運ぶ、親から子に引き継がれるその事一つ一つが偏食と云うおかしな現象を消去してゆくだろう。そもそも食べられるはずのモノが、単なる嗜好や勉強不足によって選択肢から外されてゆく現代の病理は、団塊の世代が何も考えずにセットしてしまった悪行にほかならない。
 いくつかのアレルギー、なんとかシンドロームなど気づかぬうちに治癒される食の構造が社会的な潮流となって我々の生活を潤してくれることを願うばかりだ。

 巷に溢れる完全な異常といえる“スリム願望”。小顔、理想のプロポーション、ナントカダイエット…およそ本来の健康とは無関係なコトバが並ぶ女性雑誌や広告。 そしてそれを善しとする、情けない男たち。
 あなたはモデルにでもなりたいのですか?彼女たちは職業として自らのカラダをコントロールし、いわゆる“(写真)うつりのよい”身体に仮住まいしているだけなのですよ。お気持ちはお察し申し上げますが、我々日本人は祖先が肉食民族だった欧米の人種とは骨格構造からして全く別のホモサピエンスであり、どだい無理な話なのです。
 無駄なことにお金と時間を浪費するのは今すぐ止めて、内面の美しさでも磨き始めませんか? その成果を心の底から尊重してくれる品格ある社会は、今あなたがこのことを認識し実行することから始まるのです。

 小学生が「太るから」などと云うコトバを発している限り、お題目だけ“食育”を唱えても何ら解決の道は開かれない。 根本的な倫理や道徳というものを、学びの舎に復活させようではないか。

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2007年5月11日 (金)

偏食(5)

 有用資源の少ない我が国にとって必要な糧食の大部分を輸入に頼る現状を、どう説明し解決してゆくのか。それも食育を語る上で非常に重要なポイントだ。
 安価な輸入食材に依存し、国内の一次産業の育成を怠ってきた行政の責任も大きい。サカナ離れはそこにも起因していることを、多くの為政者は認識する必要があるだろう。 国内で保護育成する漁業資源とそれ付随する産業、そして就業人口の増大を図る政策が論議されていない。 もっと大きな枠組みを生成し、義務教育世代からそうした概念を意識づけすることが、どれほど国家の将来に太い柱をもたらすものなのか、ポケットゲーム機やケータイメールで遊んでいるヒマなどないのだ。

 一次産業の衰退は何も漁業だけに限ったことではないことは周知の事実だろう。 農業にしろ畜産業にしろ、生産物の本来持つべき価値が正当に評価されておらず、経済的に成立しにくくなっているのも見逃せない。
 鶏卵や生乳の価格は何十年も以前から変化はなく、生産者への圧迫は日々増大の一途をたどっている。こうした製品もいづれ輸入に頼らざるを得ない状況に陥るのを、指をくわえて見ているしかないのか。
 偏った産業の育成・保護政策が糧食関連の一次産業への就労人口減少を招き、産業構造は大きく変化した。科学技術や先端産業は我が国の大きな柱に違いないし、これからもそのための大きな努力が払い続けられるであろう。
 しかし、海外からの安価な労働力の流入に頼ったそれらの産業が大きな利益を計上している反面、失業者の数も年々悪化傾向にある現実をどうバランスさせ、かつ国家の将来につなげて行くのか。

 私は食糧自給率の向上がその浮沈のカギであると確信している。 そのための食育でもある。 一見豊かなモノたちに囲まれ上級の生活を満喫しているように見える日本。 現実は砂上の楼閣どころの話ではない。 楼閣ならば石も残るし文化も遺産として伝わる。

 “砂上のプレハブ”

 最もふさわしいコトバであろう。 いずれは朽ち果て、その存在を知る者は誰もいない、忘却の彼方。 日本人よもっと自信を持とう!という掛け声も耳にするが、知識も論理も教育も技術も持たない者がいくら吠えても欧米諸国やアジアの有志立国からバカにされるだけだ。

 結果が出始めるのは早くて100年先だが、今ならまだ間に合うと思う。

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2007年5月10日 (木)

偏食(4)

 確かに魚の小骨はやっかいだ。サカナの味は嫌ではないが、それが理由で遠ざけている子供も多いだろう。上手に箸を使えないのも原因の一つかもしれない。
 テレビ番組などでヘンな箸の持ち方をしている芸能人が多いのも気になる。 日常的にそういったものを見慣れてしまうと、箸の持つ機能や利便性、食事の作法・心得といったものへの意識は低くなるだろう。これでイイ、悪くはない、フツーなどと思ってもらっては困るのだ。
 担当のディレクター殿には、そうした出演者に対して厳しい対応をするようにお願いしたい。公益性のある電波に乗せて放送を行うのであるから、正しく箸が使えるようになるまでは出演禁止といった規定も必要だ。 これも食育の一環として文部科学省などの介入もあって然るべきことと思う。

 何か一つの命題に対し著述しようとすると限りない問題点が浮かび上がり、倫理感が低下している現在の状況ではすべての解決策に対して無間地獄が待ち受けている。
 本来はこの場で食育に関する問題を洗い出し、改善提案をする方向性を見出そうとしているのだが、放送の問題などに言及し始めると例のライブドアとフジテレビの係争などを思い出してしまう。 平素は低俗な娯楽番組をタレ流しにしている局が、そんなときばかり「公共放送の倫理」「報道の自由」などと、もっともらしい論理を振りかざして既得権益を守ろうとしたその姿に、激しい怒りを感じたのは私だけだろうか。 

-話を元に戻そう。

 学校給食や介護食用に“骨なし切身魚”もある。中国やベトナムなどの人件費の安いアジア諸国で加工され、日本に輸入されたものだ。 介護食に関してはそれもまた良いだろう。
 しかし学校給食に果たして本当にその導入が必要なのだろうか。それではトレーニングが成立しませんよ、第一小骨がのどに刺さって死んだ子供はいないのですから。
 私が子供のころ、そうなった時はご飯を丸呑みしなさいといわれ、目を白黒涙しながらやったものです。実はこの対処方法は実に危険で事態を悪化させる可能性が高いらしい。医者にかかるのが一番だそうな。

 

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2007年5月 9日 (水)

偏食(3)

ここに一枚の鰈(カレイ)があるとしよう。 思いつく料理を挙げると
   1. 煮付け
   2. 唐揚・フライなど揚げ物
   3. 塩焼き
   4. 蒸し料理(素蒸し、酒・ワインなど含む)
   5. バター・ソテー(ムニエル含む)
   6. 塩干加工後焙り焼
   7. 燻製
 まだまだあるが、煮付けひとつとってみても様々な調理方法が浮かび上がる。醤油ベースの和風の煮付けであれば丸ごとなのか、卵がはじける切り身なのか、近海の小ぶりなものなのか、輸入物の肉厚たっぷり脂なのか。 それぞれに全く違う顔を見せる。バターやクリームを使えばさらに範囲は拡大する。
 揚げ物にしても下味をつけて竜田揚げにするのか、衣を厚くして中華風の野菜あんをかけるのか、別のソースを添えるのか…。以下同様である。

 カレイだけで献立一か月分では不足する。利用可能な魚介類でそれぞれこうした作業を行うと、献立の全てを導入することが不可能になってしまう量のレシピが出来上がる。
 これらの学校給食へのフィードバックは不可能と思われる向きも多いだろう。やれ設備が、人員が、原価がと“やらない理由”はいくらでもつけられる。できれば真面目に働きたくない慢心栄養士さんなどは、顔を真っ赤にして反対の狼煙を上げるに違いない。

 そこには何の進歩も生まれないし、逆に子供たちの意識の退廃が進行するだけの時間が過ぎてゆくだけだ。食育を真剣に構築しようとするならば、先ずこの原点から出発しなければすべてが「付け焼刃」に終わり、成果は絵に描いたモチのそのまた先送りとなる。得をするのは団塊世代の小役人とセンセーだけだ。

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