食文化の科学性

2007年6月 5日 (火)

利便性の功罪(6)

 そして筋違いの知識は消費構造にも変化を加えた。 いつでもどこでもすぐに手に入る食品供給体制を消費者と供給側が躍起になって作り上げ、夢の飽食国家は出来上がった。

 技術の革新は工業製品だけでなく、食品加工やその搬送にも利便性を付与してくれる。 朝、下関に水揚げされた鯖は瞬く間に築地に“生きたまま”運ばれ、夕方には我々の食卓を賑わす。 北海道で収穫されたアスパラは航空機で太田市場に運ばれ、翌日には大阪の串揚げ屋でベーコン巻にされている。 生産者も消費者の要求に合わせ出荷の時刻を調整する。 

 地産地消をどんなに声高に叫ぼうと、大方の消費者がソコの部分を理解し行動しなければ商売人は利益の上がる方を選択するだろう。 かくして地元産品は鮮度を失い商品価値のないものとして廃棄処分される運命となる。

 これらの事象は地域社会の経済問題だけでなく、長距離輸送量の増大に伴う環境汚染問題、不要なエネルギー消費といった国家的あるいは地球的な損失として計上されてゆくのだ。
 現在の消費構造が変わればそれに伴い産業構造も別の形になるだろう。 失業の心配をする向きもあるかもしれないが、杞憂は無用だ。 構造改革を計画性をもって執行すること、すなわち従来の産業から一次産業へのシフトを国家プロジェクトとして段階的に行えば、より健全な体質の国家に生まれ変わるだろう。

 ハコものや道路・空港といった巨額予算だけに目がくらんでいたゼネコンも、国家指導のもとに海洋資源生産巨大企業に変身できるだろうし、安全で高品質な農業生産品のコンダクターになれるチャンスもある。
 豊かな国創り、美しい国づくりは「食」をいかにプロデュースできるかにかかっている。 先端エレクトロニクスもそれからでいいではないか。

 「付け焼き刃」という言葉の意味を、わが身に照らしてもう一度確認すべきである。

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2007年6月 4日 (月)

利便性の功罪(5)

 ブログ大国ニッポンでは面白い現象があり、個人の日記的要素の強かったウェブログに大手の通販企業のアフェリエイト広告が蔓延している。 家電製品から書籍・音楽CD・映画DVD・化粧品・健康器具までありとあらゆるものが網羅されており、中にはそのサイトの目的がなんであるのかさえ判別がつかないものもある。 閲覧数の多いブログには企業側からのアプローチもあるという。

 当然その中には食品も存在し“お取り寄せグルメ”の人気もかなりのものらしい。 自宅にいながら全国の旨いもの巡り…なんて素晴しい国なのだろう。 おかげで今まで名前も聞いたことのなかった産品がネットを通じて入手でき、自分一人食通になったのかと錯覚せんばかりだ。

 そして(昔旅したあの地方のあの和菓子が忘れられず、もう一度食してみたい)と希望していた方などには、そんな夢をかなえてくれる救いの神だろう。 だがここで少しだけ考えてみよう、はたしてそれが我々に本当の豊かさを与えているものなのかを。

 ビニール・ハウスの促成栽培や品種の改良と地球の反対側からの輸入などによって、生鮮食料品は年間を通じていつでも手に入るようになった。 これでさえ旬を知る季節感の喪失と、本当の旨さの入り口を塞いでしまっているのに、なんと節操のないことを考えているのかと虚しくなるばかりだ。

 食べ物のおいしさとは、そのモノがもつイロカタチ・ニオイ・アジだけではなく、食する環境に大きく依存している。その土地の気温・湿度・空気から水の味・ph、周囲の自然環境まで密接なかかわりをもって構成されている訳で、同じものを別の土地に瞬間移動できたとしても同じ味は存在しないのだ。

 そのような状況下で食品の評価をしようなどもってのほか、生産者に失礼極まりない。 無知な珍しもの好きがたまたまカネを手に入れてしまったために、商人もそれ相手の商売に精を出し、勘違いの連鎖が筋違いの知識だけを増長させている。

 

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2007年6月 3日 (日)

利便性の功罪(4)

 飽食の時代、と言われて久しい。 食糧自給率のワースト・トップクラスの国がである。 しかもそれは悪化の一途をたどっているのだ、皮肉な笑いがこみあげてくる。

 “飽食”というコトバはいかにも豊かな食生活を連想させるが、我が国の実態はいささかというよりも全く乖離した事実しかない。 日々口にする食品の60%以上が海外からの輸入品に占められており、しかもそれらは低コストで生産された基幹食糧なのだ。 実に恐ろしい実態なのである。

 にも関わらず、我々は捨て続けている。 スーパーやコンビニで売られる弁当や総菜、はてまた学校給食や外食産業によって廃棄される食糧の総量は、飢餓に苦しむ某発展途上国の食糧事情を簡単に好転させるだけのものがあるという。 当然そのコストは可食部分に上乗せされ、本来対価として支払うべき価値との差異が顕著になっているはずだ。 なぜ誰もこの部分に触れないのであろうか。 今まではそれでよかったかもしれない、いや良かったわけではないのだが、無能官僚や役人にダマされていた我々にも非がないとも言えなくはないからだ。

 モラルから始まり食育の問題まですべて一からの出直しを覚悟しなければならないが、先に述べたように物々交換=等価交換の原理をしっかり教育することが肝要かと思う。 第一に食材の生産者に対する感謝が足りない。 第二に加工・提供者に対する尊敬がない。 第三に生きて食することへの喜びと希望が薄い。 これだけである。

自分が行けない遠くから獲物を捕ってきてくれてありがとう、自分が作れないものを加工・調理してくれてありがとう、という気持ちが「食」への認識を変えるであろうし、明日への糧となるのだから。 他人が苦労して造り上げた価値はそんなに安い対価で支払われるべきではないことに、早く気づかねばならない。

 

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2007年6月 2日 (土)

利便性の功罪(3)

 食品や飲料を保護するパッケージやボトル。 これらにも我が国独特の商業的慣行が横行している。
古来より伝承されている“相手への畏敬の念を込めた美しい包装”や“自然の素材を生かしたムダのない容器”のことを指しているのではない。

 原油産出国のアメリカをマネた発泡スチロール製のファーストフード容器、メーカーごとに異なる飲料のガラス瓶やPETボトル、ビニール袋の中でさらにビニール袋で個包装された菓子…。キリもなく浮かび上がる無駄の数々。

 …確かに便利で、しかも楽しい。

 清潔にパッケージされた商品は、買い物袋が汚れたり衣類に付着して異臭を発したりといった心配もなく、家に帰ってくれば何もせずにそのまま冷蔵庫に収納できる。 何の工夫や苦労をしなくても賞味期限までは安心して保管でき、そのまま捨てることが可能だ。 一度その恩恵に預かれば麻薬的な快楽に溺れ、そして後戻りは困難になる。 分かっていても本当に便利で楽なのだ。 自分で稼いだカネだ、どう使おうと自由だろう、という論理も間違ってはいない。

 EUでは近年エコロジーへの取り組みが更に強化され、特にエネルギーの供給に関しては官民が一体となって推進している。 が、これらは昨日今日に始まったことではない。 すでに何十年も以前から(日本が高度経済成長によってヨーロッパ社会を追い抜いた、と浮かれていた時代から)経済の成長よりもその基礎基盤の整備に重点を置き、現在の繁栄の礎としている。 その結果は教育の水準や社会福祉の高度化をも同時に果たし、我が国が再びそのレベルにまで押しあがるのは果てしない困難を乗り越えねば無理であろう。

 スーパーのレジ袋廃止や買い物カゴ持参といった「ちょっとした不便」をリトマス紙のように扱っているが、政府も企業もこうした取り組みを一気に拡大して法制化しなければ、我が国の「食」に明日はない。
 事なかれ主義の官僚には、とうてい解決不可能な問題でもある。

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2007年6月 1日 (金)

利便性の功罪(2)

 新商品のサイクルというものがある。 大型耐久消費財の代表である自動車は、欧米に比べて短いとはいうものの数年の間をおいて発表されているし、衣料品も年毎の発表と相場は決まっている。

 そうしたものと直接比較するのは間違いかもしれないが、近年の食料品事情はどうしても納得が出来ない。
特に顕著なものはビールと即席めんだ。 春夏秋冬の各季節限定に始まり、ご当地バージョンやら有機やら無農薬、カロリーカットにプリン体云々…とうてい覚えきれない種類と量が数か月おきに出ては消え出ては消えしているビール。 おまけにこれらに“発泡酒”と“リキュール(第三のビール)”が加わり、良い表現ならば百花繚乱、悪く言えば無間地獄状態にある。

 ビールメーカーはシェア争いを勝ち抜く戦略として他社に先駆けた嗜好の先導を狙い、消費者もまた選択肢の広がりと解釈して好意的な受け止め方をする。
 こんな滑稽な消費構造が蔓延しているのはこの国だけだ。 開発コストと広告宣伝費、派手な店頭販売イベントとプレミアグッズとやらの添付。
 それらはレギュラー商品の販売原価に反映され、欲しくもない商品のツケ(消費者の興味本位な要求)として余分な代金を支払わせているのだ。

 即席めんも似たようなものだ。 結局は定番商品のみが生き残り、去年販売された商品名などは誰も記憶にない。 常時こんな様が繰り返されているのである。

 新商品がなければ売上は果たして落ちるのだろうか。 答えはノーである。 従来の目移りするような売り場環境に慣れてしまった消費者からは一時苦情が殺到するだろうが、それも慣れてしまえば同じことでメーカーは「食」のリーダーたる自信と誇りを持って無視をすればよろしい。 やがては賢い消費者の支持が得られるはずだ。

 ビールにしろ即席めんにしろ看板商品で食っていけないようならば、それはその商品が良くないからなのであって、大いに反省し改良に努めるべきであろう。 社会に対して責任を持て、ということだ。

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2007年5月31日 (木)

利便性の功罪(1)

 狩りに出かけ獲物を得て帰り、小さな単位社会の中でそれを分け合って食料とする。 あるいは野山を切り開き作物を育てては収穫する、そんな生活が全てだった古代。 獲物に逃げられることもあったであろうし、天候の具合が植物の生育を阻むことも少なからずあっただろう。
 現代社会はそうしたリスクを負わずに容易な糧食の確保が可能になった。 冷凍食品からレトルト・パウチ、カップ麺などスーパーに買い物に出かければ、ありとあらゆる加工食品があふれている。

 だが畜産業・漁業・農業いずれをとってみても、収益を得る基本的な構造は古代と同じである。 自然と共に生き、逆らうことのできない大きな法則によって支配されている。 見方によっては一番割の合わない職業かもしれないが、それも人類の知恵と技術の発達が養殖や品種改良といった成果を生み、リスクの細分化を可能にした。    ただそのリスクは消滅したわけではなく、自然界の法則は現在も生き続けており様々な形で我々の生活に影を落としている。

 もともと文明は食糧の安定した確保のためだけに発達していた。 他の生物種に比して高等だったとはいえホモ・サピエンスとて生物であり、生まれ・食い・成長し・絶えてゆくだけである。 その知性の発達と蓄積が生命体の存続に必要なエネルギー確保を合理的な形で文明化し、繁栄を築き上げてきた。
 個体の生存率が格段に向上した人類は、次々と別の文明を生み出しやがて文化も創造し始める。 自然界のリスクから距離を置けるようになり、そこから解放されたと勘違いした人類はやがて自らの欲望と無謀な夢のために地球の破壊活動に手を染め始めている。

 温暖化や異常気象の頻発、人為的な種の絶滅といった問題はここ数年注目を集め、各国の機関がその対策と解決のために奔走していると聞く。 利便性の追求は我々の文明・文化の起点でもあり、その恩恵を我々自身が享受しているのであるが、同時に現在人類が内包する諸問題の出発点もそこにある…というのがこのチャプターの要旨である。 

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2007年5月30日 (水)

料理の多面体(6)

ただテクノロジーは生活の余裕とスピードを向上させる恩恵をもたらしたが、食事・調理・食材の購買などといった生活の多岐にわたって意識の変形を引き起こした。 たとえば電子レンジの登場や電磁調理器の普及は食品の製造・販売側にも大きな意識改革を要求し、外食と家庭料理の垣根はますます曖昧なものになった。

情報そのものが売買される、或いは無償で提供される頻度が十年前に比べて非常に高くなった現在は、料理のレシピひとつとってみても同様で、家庭の主婦であってもその気になれば一流店顔負けの料理を家族にふるまうことが可能だ。 それだけに外食産業の仕掛け人(こういった職業までもが新たに生まれている)は、トレンドの創出とアイデンティティーの確立に躍起になるあまり、倫理の保持と経済の繁栄とのバランスについて忘れてしまったようだ。

複合的な要因が本来直線で構成されている料理の多面体構造にねじれを加え、忘れてはならない大切なことをその構造体の中で変形させる、あるいは排斥してしまう現象が見える。

蒲鉾は魚肉から作るが、魚肉は蒲鉾では作れない。 蒲鉾にしか持ち得ない食としての特徴も、魚肉の安全性や個体数の確保があってこそ継続生産できる訳で、この部分を多くのニッポン人が見失っている。 高度経済成長期に「日本人は水と安全はタダだと思ってきた」と自嘲気味に語っていた。 今やその認識レベルからより高いステージが求められているにもかかわらず、生きることの基本条件である「食」に関してさえその基礎的維持構造を見出していない哀れ。

料理の四面体は底面が生もの=食材であり各頂点に油・水・空気・火が配置されている。これに時間軸が加わり多面結晶構造を形成するのであるが、我が国が独自に供給可能なのは水と空気だけであり、食材も油も火もヨソ様を頼りにしなければならない現在は、四面体構造の維持は不可能なのだ。 ただ結晶構造によってその崩壊の実像が見極めにくくなっているに過ぎないことを認識いただきたい。

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2007年5月29日 (火)

料理の多面体(5)

正当な価値貨幣を支払わないケースとは逆に、価値のないものに支払っている場面にもよく遭遇する。

身近で日常的なものとして今や国民的料理となった「ラーメン」。 もちろん店によっては古典的な作り方を頑固なまでに押し通しているし、そうした店ほど価格が十数年前のまま…など微笑ましいを通り越して気の毒に思える場合もある。

しかしテレビのグルメ番組の隆盛と共に現れた一部の店では、雑誌の記事映えを気にしての事なのか、麺が見えない程の量の焼き豚や全体を覆い尽くす豚の背油、異常な種類と量のトッピングを施したものなどが主流になりつつあるようだ。

ここで個人的な嗜好を揶揄するつもりはないが、驚くのはその価格である。 ラーメン一杯が千円を超す価格で提供され、また消費者がそれを“究極”や“至高”などのコトバによって安易に表現・容認していることに強い違和感を覚える。 トリフやフォアグラを乗せたパスタが存在し、それらは高級レストランでそれなりの接客によってサービスされているからこそ価値があるのであって、前者と混同してはならないのだ。

商売であるから客が満足し代金を支払ってくれればそれでよいのかもしれないが、ここにも売り手と買い手のモラルや常識の異変が存在するし、気づかぬままに外食産業が侵食されてゆくのを双方が助長している。 
バブル崩壊の経済が復興しはじめ我々はその時代の遺産を今改めて享受し始めたかのように映るが、実はこれは大きな勘違いであり、本物と偽物の見分けがつかなくなっている末期的症状の始まりなのだ。

明日にも食糧が尽き国民全体が窮状を呈するなどということはないが、確実に進む道幅は狭くなってゆくだろう。
多面のシフト量が大きすぎて見えなくなってしまったのか、それとも団塊の世代お得意の先送り体質で見て見ぬフリをしているだけなのか。

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2007年5月28日 (月)

料理の多面体(4)

日本国内で販売されている「純粋蜂蜜」のうち25%に甘味料の添加があったという。 しかも販売者の組合組織がその事を把握していながら隠ぺいを図っていたらしい。

花が咲かない時期のために養蜂家が蜂に与える飼料に含まれる物質が、その生産物である蜂蜜に溶出してしまうこともあるらしく、シロがクロと判定されたりと複雑だ。 が、欺瞞行為が行われていた事実に変わりはない。

この事件の起因は二つある。 まず一つ目は販売者のモラルの消滅と自らの利益優先体質だ。 純粋でないものを純粋かのように表示して販売したことは詐欺なのであり、恥ずべき行為だ。 本来価値の少ないものに付加価値をつけて利益をあげるのとは異なり、不法な増量と表示によりそのものの価値を下落させておきながら、変わらぬ利益を確保しようとする姑息な手段。 商人としても許せないが、食品を扱う企業・団体としての責任感のなさにただただ呆れるばかりだ。

もう一つは消費者の価値観の変化である。 確かに工業生産品はテクノロジーの恩恵を受け、より安い対価で手に入れられるようになったが、その生産プロセスを大幅に変えにくい食材・食品・料理にまで同様の価格変更を求めるのはいかがなものかと思う。
消費者が正当な価値貨幣との交換を拒むからこそ、生産者の経済はひっ迫し、あるべき品質を偽ってまで自らの生活を守ろうとするのだ。

蜜蜂が一生かかって生産する蜜の量は小さじ一杯程度だ、という話を聞いた。 生産者は丹念な作業と努力でそれを集めるからこそ、蜂蜜の価値は高いのであって自らを汚すこともあるまい。 同時に消費者もその食材の製造に対する知識の会得と生産者への尊敬の念を払わなければ、この悪循環は断ち切れないのである。

蜂蜜に限った話ではない、すべての『食』についても同じことが言えるからだ。

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2007年5月27日 (日)

料理の多面体(3)

過日のニュースで食卓の魚離れがさらに進行している、ということを報じていた。 食味や調理のプロセスの問題ではなく、その市場価格の高騰が原因だという。

市場の原理からすれば、人気のない商品は通常は価格が下落するものであるが、このケースは事情が少し複雑だ。 どうやら中国やロシアといった国々の経済が発展し好況なために、かの国民は魚介類を従来よりも多く食するようになったらしい。 それが海産食材の輸入大国である我が国の商社にとって不利な条件を生み出し、圧迫されることになっている。

経済的な余裕が新しい分野の料理の需要を喚起し、記憶された快感は連鎖増大してさらに多くの食材とレシピを求める。 欧米諸国では寿司などの日本食が注目され、一般民衆もそれらを口にする機会も増加した。 高級店といわれるレストランでも伝統的な調理方法や食材に加え、和食の方程式を加える店が急激に増えた。 その主力となっているものは、我々日本人が海洋民族として培ってきた魚介類の加工調理と保存のノウハウだ。

ところが当の日本人は大切なそれらを保持するどころか、今まさに捨て去らんばかりの勢いで別のテーブルの食事に興味を示している。 多面性を付加させることは文化の発展であるが、テーブルから離れてしまっては文明のすり替えにしかならない。 気がついた時には取り残されているのは我々だけであり、蔑みの眼でしか見てもらえない状況が容易に想像できる。

海産資源の養殖事業は日本の商社や政府機関の尽力によって世界一流の知識と技術を生み出し、途上国をはじめとした生産活動に大きく寄与しているという。 それらをなぜ国内の経済や食糧事情の改善に振り向けられないのか理解に苦しむ事であり、腰の据わった産業基盤の整備を待望する由縁でもある。 

 

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