利便性の功罪(3)
食品や飲料を保護するパッケージやボトル。 これらにも我が国独特の商業的慣行が横行している。
古来より伝承されている“相手への畏敬の念を込めた美しい包装”や“自然の素材を生かしたムダのない容器”のことを指しているのではない。
原油産出国のアメリカをマネた発泡スチロール製のファーストフード容器、メーカーごとに異なる飲料のガラス瓶やPETボトル、ビニール袋の中でさらにビニール袋で個包装された菓子…。キリもなく浮かび上がる無駄の数々。
…確かに便利で、しかも楽しい。
清潔にパッケージされた商品は、買い物袋が汚れたり衣類に付着して異臭を発したりといった心配もなく、家に帰ってくれば何もせずにそのまま冷蔵庫に収納できる。 何の工夫や苦労をしなくても賞味期限までは安心して保管でき、そのまま捨てることが可能だ。 一度その恩恵に預かれば麻薬的な快楽に溺れ、そして後戻りは困難になる。 分かっていても本当に便利で楽なのだ。 自分で稼いだカネだ、どう使おうと自由だろう、という論理も間違ってはいない。
EUでは近年エコロジーへの取り組みが更に強化され、特にエネルギーの供給に関しては官民が一体となって推進している。 が、これらは昨日今日に始まったことではない。 すでに何十年も以前から(日本が高度経済成長によってヨーロッパ社会を追い抜いた、と浮かれていた時代から)経済の成長よりもその基礎基盤の整備に重点を置き、現在の繁栄の礎としている。 その結果は教育の水準や社会福祉の高度化をも同時に果たし、我が国が再びそのレベルにまで押しあがるのは果てしない困難を乗り越えねば無理であろう。
スーパーのレジ袋廃止や買い物カゴ持参といった「ちょっとした不便」をリトマス紙のように扱っているが、政府も企業もこうした取り組みを一気に拡大して法制化しなければ、我が国の「食」に明日はない。
事なかれ主義の官僚には、とうてい解決不可能な問題でもある。
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