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2007年5月

2007年5月31日 (木)

利便性の功罪(1)

 狩りに出かけ獲物を得て帰り、小さな単位社会の中でそれを分け合って食料とする。 あるいは野山を切り開き作物を育てては収穫する、そんな生活が全てだった古代。 獲物に逃げられることもあったであろうし、天候の具合が植物の生育を阻むことも少なからずあっただろう。
 現代社会はそうしたリスクを負わずに容易な糧食の確保が可能になった。 冷凍食品からレトルト・パウチ、カップ麺などスーパーに買い物に出かければ、ありとあらゆる加工食品があふれている。

 だが畜産業・漁業・農業いずれをとってみても、収益を得る基本的な構造は古代と同じである。 自然と共に生き、逆らうことのできない大きな法則によって支配されている。 見方によっては一番割の合わない職業かもしれないが、それも人類の知恵と技術の発達が養殖や品種改良といった成果を生み、リスクの細分化を可能にした。    ただそのリスクは消滅したわけではなく、自然界の法則は現在も生き続けており様々な形で我々の生活に影を落としている。

 もともと文明は食糧の安定した確保のためだけに発達していた。 他の生物種に比して高等だったとはいえホモ・サピエンスとて生物であり、生まれ・食い・成長し・絶えてゆくだけである。 その知性の発達と蓄積が生命体の存続に必要なエネルギー確保を合理的な形で文明化し、繁栄を築き上げてきた。
 個体の生存率が格段に向上した人類は、次々と別の文明を生み出しやがて文化も創造し始める。 自然界のリスクから距離を置けるようになり、そこから解放されたと勘違いした人類はやがて自らの欲望と無謀な夢のために地球の破壊活動に手を染め始めている。

 温暖化や異常気象の頻発、人為的な種の絶滅といった問題はここ数年注目を集め、各国の機関がその対策と解決のために奔走していると聞く。 利便性の追求は我々の文明・文化の起点でもあり、その恩恵を我々自身が享受しているのであるが、同時に現在人類が内包する諸問題の出発点もそこにある…というのがこのチャプターの要旨である。 

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2007年5月30日 (水)

料理の多面体(6)

ただテクノロジーは生活の余裕とスピードを向上させる恩恵をもたらしたが、食事・調理・食材の購買などといった生活の多岐にわたって意識の変形を引き起こした。 たとえば電子レンジの登場や電磁調理器の普及は食品の製造・販売側にも大きな意識改革を要求し、外食と家庭料理の垣根はますます曖昧なものになった。

情報そのものが売買される、或いは無償で提供される頻度が十年前に比べて非常に高くなった現在は、料理のレシピひとつとってみても同様で、家庭の主婦であってもその気になれば一流店顔負けの料理を家族にふるまうことが可能だ。 それだけに外食産業の仕掛け人(こういった職業までもが新たに生まれている)は、トレンドの創出とアイデンティティーの確立に躍起になるあまり、倫理の保持と経済の繁栄とのバランスについて忘れてしまったようだ。

複合的な要因が本来直線で構成されている料理の多面体構造にねじれを加え、忘れてはならない大切なことをその構造体の中で変形させる、あるいは排斥してしまう現象が見える。

蒲鉾は魚肉から作るが、魚肉は蒲鉾では作れない。 蒲鉾にしか持ち得ない食としての特徴も、魚肉の安全性や個体数の確保があってこそ継続生産できる訳で、この部分を多くのニッポン人が見失っている。 高度経済成長期に「日本人は水と安全はタダだと思ってきた」と自嘲気味に語っていた。 今やその認識レベルからより高いステージが求められているにもかかわらず、生きることの基本条件である「食」に関してさえその基礎的維持構造を見出していない哀れ。

料理の四面体は底面が生もの=食材であり各頂点に油・水・空気・火が配置されている。これに時間軸が加わり多面結晶構造を形成するのであるが、我が国が独自に供給可能なのは水と空気だけであり、食材も油も火もヨソ様を頼りにしなければならない現在は、四面体構造の維持は不可能なのだ。 ただ結晶構造によってその崩壊の実像が見極めにくくなっているに過ぎないことを認識いただきたい。

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2007年5月29日 (火)

料理の多面体(5)

正当な価値貨幣を支払わないケースとは逆に、価値のないものに支払っている場面にもよく遭遇する。

身近で日常的なものとして今や国民的料理となった「ラーメン」。 もちろん店によっては古典的な作り方を頑固なまでに押し通しているし、そうした店ほど価格が十数年前のまま…など微笑ましいを通り越して気の毒に思える場合もある。

しかしテレビのグルメ番組の隆盛と共に現れた一部の店では、雑誌の記事映えを気にしての事なのか、麺が見えない程の量の焼き豚や全体を覆い尽くす豚の背油、異常な種類と量のトッピングを施したものなどが主流になりつつあるようだ。

ここで個人的な嗜好を揶揄するつもりはないが、驚くのはその価格である。 ラーメン一杯が千円を超す価格で提供され、また消費者がそれを“究極”や“至高”などのコトバによって安易に表現・容認していることに強い違和感を覚える。 トリフやフォアグラを乗せたパスタが存在し、それらは高級レストランでそれなりの接客によってサービスされているからこそ価値があるのであって、前者と混同してはならないのだ。

商売であるから客が満足し代金を支払ってくれればそれでよいのかもしれないが、ここにも売り手と買い手のモラルや常識の異変が存在するし、気づかぬままに外食産業が侵食されてゆくのを双方が助長している。 
バブル崩壊の経済が復興しはじめ我々はその時代の遺産を今改めて享受し始めたかのように映るが、実はこれは大きな勘違いであり、本物と偽物の見分けがつかなくなっている末期的症状の始まりなのだ。

明日にも食糧が尽き国民全体が窮状を呈するなどということはないが、確実に進む道幅は狭くなってゆくだろう。
多面のシフト量が大きすぎて見えなくなってしまったのか、それとも団塊の世代お得意の先送り体質で見て見ぬフリをしているだけなのか。

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2007年5月28日 (月)

料理の多面体(4)

日本国内で販売されている「純粋蜂蜜」のうち25%に甘味料の添加があったという。 しかも販売者の組合組織がその事を把握していながら隠ぺいを図っていたらしい。

花が咲かない時期のために養蜂家が蜂に与える飼料に含まれる物質が、その生産物である蜂蜜に溶出してしまうこともあるらしく、シロがクロと判定されたりと複雑だ。 が、欺瞞行為が行われていた事実に変わりはない。

この事件の起因は二つある。 まず一つ目は販売者のモラルの消滅と自らの利益優先体質だ。 純粋でないものを純粋かのように表示して販売したことは詐欺なのであり、恥ずべき行為だ。 本来価値の少ないものに付加価値をつけて利益をあげるのとは異なり、不法な増量と表示によりそのものの価値を下落させておきながら、変わらぬ利益を確保しようとする姑息な手段。 商人としても許せないが、食品を扱う企業・団体としての責任感のなさにただただ呆れるばかりだ。

もう一つは消費者の価値観の変化である。 確かに工業生産品はテクノロジーの恩恵を受け、より安い対価で手に入れられるようになったが、その生産プロセスを大幅に変えにくい食材・食品・料理にまで同様の価格変更を求めるのはいかがなものかと思う。
消費者が正当な価値貨幣との交換を拒むからこそ、生産者の経済はひっ迫し、あるべき品質を偽ってまで自らの生活を守ろうとするのだ。

蜜蜂が一生かかって生産する蜜の量は小さじ一杯程度だ、という話を聞いた。 生産者は丹念な作業と努力でそれを集めるからこそ、蜂蜜の価値は高いのであって自らを汚すこともあるまい。 同時に消費者もその食材の製造に対する知識の会得と生産者への尊敬の念を払わなければ、この悪循環は断ち切れないのである。

蜂蜜に限った話ではない、すべての『食』についても同じことが言えるからだ。

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2007年5月27日 (日)

料理の多面体(3)

過日のニュースで食卓の魚離れがさらに進行している、ということを報じていた。 食味や調理のプロセスの問題ではなく、その市場価格の高騰が原因だという。

市場の原理からすれば、人気のない商品は通常は価格が下落するものであるが、このケースは事情が少し複雑だ。 どうやら中国やロシアといった国々の経済が発展し好況なために、かの国民は魚介類を従来よりも多く食するようになったらしい。 それが海産食材の輸入大国である我が国の商社にとって不利な条件を生み出し、圧迫されることになっている。

経済的な余裕が新しい分野の料理の需要を喚起し、記憶された快感は連鎖増大してさらに多くの食材とレシピを求める。 欧米諸国では寿司などの日本食が注目され、一般民衆もそれらを口にする機会も増加した。 高級店といわれるレストランでも伝統的な調理方法や食材に加え、和食の方程式を加える店が急激に増えた。 その主力となっているものは、我々日本人が海洋民族として培ってきた魚介類の加工調理と保存のノウハウだ。

ところが当の日本人は大切なそれらを保持するどころか、今まさに捨て去らんばかりの勢いで別のテーブルの食事に興味を示している。 多面性を付加させることは文化の発展であるが、テーブルから離れてしまっては文明のすり替えにしかならない。 気がついた時には取り残されているのは我々だけであり、蔑みの眼でしか見てもらえない状況が容易に想像できる。

海産資源の養殖事業は日本の商社や政府機関の尽力によって世界一流の知識と技術を生み出し、途上国をはじめとした生産活動に大きく寄与しているという。 それらをなぜ国内の経済や食糧事情の改善に振り向けられないのか理解に苦しむ事であり、腰の据わった産業基盤の整備を待望する由縁でもある。 

 

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2007年5月26日 (土)

料理の多面体(2)

当時は食品の安全性への注目が急激になされ始めた時期だった。 大手メーカーの異物混入事件もマスコミによって大衆の下にさらされ、また公害という環境破壊のニュースも露出の度合いが高まりつつある時代でもあった。

“発ガン性”という恐ろしいコトバは専門知識の不足している大衆にとっては、今すぐにでも発病してしまうのではないかという漠然とした不安感を植え付け、チクロに至っては毒物かのような印象を持ったに違いない。
メーカーとしてはすでに購入し在庫がある状態での切り替えは、経営的な負担を更に多く強いられ気の進まない話だったことは想像に難くないが、原料にチクロなどと記載した分には販売激減必至であり、苦渋の選択であったことだろう。

思わぬ変化に気づいた消費者もいたと思うが別の甘味料に切り替えたことにより、従来の食味が変わってしまった製品もあったのだ。 生産技術者はその変化を最小限に抑制しようと努力しただろう。 だが慣れ親しんだ味は消費者の記憶域に深く刻まれており、結果として「マズくなった」という表現がとられることになる。
こうした事例の積み重ねが、自然食への回帰の出発点になっていったことは歓迎すべきことであるが、取り残されてしまった食品メーカーは哀れだ。

一つ肝に銘じておかねばならないことは、その質的な劣化があったわけでもない料理が、時代の趨勢や嗜好の変化によって評価が下落してしまうことがあるということだ。 変化に沿う、あるいは準ずるという対応方法もあるが、常に本当は…という気持ちや信念との狭間で揺れ動き、悩みを抱え続けてゆかなくてはならなくなる。
また擁護しなければならない文化もあり“守り続ける”という価値も見出すべきであろう。 安易な省力化や商業主義的な食品の開発・販売は、歴史に裏付けられた食文化への冒涜であり許し難い。 食べ物は工業生産品ではないのだ。

消費者にも責任の一端があることは明確であり、初等教育またはそれ以前からの取り組みを期待しているし、 栄養学的な見地と倫理を踏まえたあるべき姿を、早期に取り戻す作業が求められていることもおわかり頂きたい。

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2007年5月25日 (金)

料理の多面体(1)

このチャプターのタイトル、実は半パクリである。 玉村豊男氏が文芸春秋社から1983年に出版した「料理の四面体」からヒントを得たものだ。
氏の著述は、空気-水-油-火という四つのキーワードを料理という立体の各頂点に配し、四面体としてとらえることによって科学的な分析と検証を行うという、画期的な書である。 当時大学生だった私はこの書に深い感銘を覚え、感情や感覚でしか接していなかった料理というものを、科学の眼を通して論ずるということに気づかせてくれた一冊である。

月日は流れ世の中の経済状況や生活慣習は大きく変化したが、この著書の持つ論理の整合性・正当性は現在も変わるところはなく、食に係る仕事をされている方にはぜひ一読願いたいと思う。

四面体ではなく多面体と銘を打った理由は、近年の価値観や嗜好の変化を含めた形で別の面を追ってみたいと思うに至ったからである。 調理の過程における時間的な変化ではなく、歴史や時代といった大きな潮流の中でその食材や料理に与えられたポジションや価値について述べてゆきたい。

          ◆     ◆     ◆

合成着色料・合成甘味料といった食品添加物は、戦後の経済発展とともに爆発的な使用量が世の中に噴出したわけであるが、厚生省(現・厚生労働省)の研究や海外の機関からの指摘により発売・使用の禁止に至ったものも数知れず存在する。
発ガン性やアレルギーの起因物質といった概念が未成熟だった時代の遺物でもあり、現在は厳しい基準で認可される、と聞いている。

かつて菓子や漬物の甘味料として広く使用されていた「チクロ」がある。 ある日突然発売が禁止され流通から消え去ると、使用者は使いきるまでの間を待たずに別の甘味料に切り替えていった。
使用が禁じられたわけではないのに、早期に切り替え変更が行われた理由は何だったのか。

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2007年5月24日 (木)

記憶と味覚(6)

もう一方は“食味の変化”である。 人類はその永い歴史の中で食塩の使用による食材の有効保存と食味の向上の恩恵にあずかってきた。
科学的な分析もない遠い古代から、塩化ナトリウムによる食品の組成変化を巧みに利用し、ヒトとして摂取する栄養素の質的量的向上に成功している。

医学的意味ではない適塩量とは、モノを美味しいと感ずる塩分量の事である。 たとえばそのまま口にしても何の旨みも感じない野草が、適量の塩分が補われることにより全く別の食品に変貌することなどでお解かり頂けると思う。
また魚類等に顕著な効果として、余分な水分や脂質が浸出することにより、腐敗ではなく発酵という新たな栄養素の出現もある。

これらは他の化学物質では代替でき得ないものであり、まさに塩だけに与えられたマジックなのであるが、同様の問題は“糖分の摂取”にも現われている。

直接燃焼エネルギーとなる糖分は、本来子供や思春期の女性が潜在的な欲求を持ち、また貴重な快楽物質として富裕層に大切にされてきた。 ところが近年はどうだろう、過度なダイエット願望からなのか若い女性はもとより子供までもが“甘さ”に対して過敏になっているように思えてならない。 

伝統的な製法によって調製されたクリームはかなりの甘さを感じさせるが、それ故にフレッシュクリームの旨味や香りが生きているのであって、若者を中心に支持されているケーキ屋のクリームなどは、獣の生臭さを感じるほどだ。 それに気づかなくなってしまっているのも、動物性脂肪の摂取比率増加がヒトの進化速度を超えているからなのだろう。

塩分も糖分も本来の「おいしさ」を知ることによってその量的な重要性を認知できるのであり、また我々の健康にも好適な結果をもたらすのである。

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2007年5月23日 (水)

記憶と味覚(5)

インスタント・ラーメンの味付けは関東と関西で違うものが製造され、それぞれに出荷されていることをご存知の方も多いだろう。
近年はメーカー間の競争も激しく、さらに細分化した製品地域もあるらしい。 それはそれで歓迎すべきことなのだろうが、ラーメンに限らず食品全体のボリュームに比して塩と砂糖の使用量がかなり減少している。

これは一見、健康に配慮しての結末かと喜ばしくも思えるのだが、別の側面から問題を切り込んでいくと、諸手を挙げてよいものかと首を傾げることがある。

塩分摂取量の過多な地域は、脳梗塞・高血圧といった内臓循環器系の疾患が伝統的に多く、同時に平均寿命も数値が低い。 医学的な研究データであり、確かに減塩がその対策として有効なことも間違いない。

塩分の摂取量というものは一回あるいは一日の総合量であり、食品の単位分量の含有率を下げることによってその量の低減化を図っている。 だが、従来の含有率であっても、食品の摂取量を減らせば体内に吸収される塩分量も当然下がるわけであり、同等の結果を得ることができる。

なぜこのような面倒なことを言い出したのかいうと、食品の減塩によってまた別の問題が発生しているからなのである。
殺菌(というよりも雑菌の繁殖を抑制する)効果のある塩分の低下によって、別の保存方法に依存しなければ長期大量保存ができなくなったこと。 つまり冷凍や無菌パウチ加工などは問題が少ないが、人工保存料や化学調味料の添加比率が上昇している点を見逃してはならない。 これらが別の新たな障害・疾病を誘引している可能性が非常に大きい。 

 数世代を経緯しなければ結果が判明しないヒトのDNA変異は、マウスの実験だけでは検証できないし、単世代で発生するアレルギーや免疫力の低下などもそれらの有害物質がトリガーとなっている、という報告もある。

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2007年5月22日 (火)

記憶と味覚(4)

確立してしまった味覚によって、新たな記憶領域の形成が阻害されるのも事実だ。
好き嫌いは新たな好き嫌いを生み、新たな体験の機会を次々に奪ってゆく。 この“好き嫌い”というコトバも“単なるワガママ”と同義に扱われるべきであり、特にトレーニング期間においては許容されるものではない。

幼少時から味の濃い畜肉製品や咬合咀嚼の容易な食品ばかりを喫食していると、それ以外の物質摂取が苦痛に感ずるようになる。
野菜や魚介類の食卓離れは何も経済的な価値価格からだけで進行してしまった訳ではない。 親の認識不足や安易な生活慣行によって引き起こされた部分も大いにある。 豊かになった、と思われている食生活は特定分野にシフトしているだけであり、実は何も質的な変化ももたらしていないばかりか逆に退歩している感すらある。

一部の発展途上国を除き、欧米諸国やアジア圏の国々では今もなお伝統的な食文化とスタイルを保持しており、情報往来の驚異的な発達を、それらをベースにした上積みに上手に利用している。
我が国においても古来より永きに亘って存在してきた食習慣やコントロール方法があったにもかかわらず、ここ数年の間に消滅する傾向もある。 実に恐ろしい状態なのだ。

米飯食が学校給食に採用されて久しいが、コメの持つアドバンテージが生かされていないばかりか基本的な感覚育成に関しても全く機能していない。 この件は今一度「食育」カテゴリを参照頂きたい。
お題目さえ掲げて実施すればその場をすり抜けられる役人根性と慢心栄養士の悲惨な共演劇場。 お粗末な実態は明らかにされることもなく、時代の陰にうずもれて行くばかりだ。

生きている中で重要な意味を持つ時間帯、その一つを担う“食”が占有する記憶域を矮小化させること、すなわち本来持つはずだった喜びや感動、楽しみといった記憶が成立しない細胞集団を大量排出させている現代の日本社会は、未来の繁栄のための手立てを失いつつある現実を諦観するだけなのだろうか。

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2007年5月21日 (月)

記憶と味覚(3)

記憶領域の拡張を“味覚の発達”の関連事項として検証してみたい。

機能器官神経の発達による感覚認識も当然存在するが、生存時間の累積によって経験の記憶回数も比例増加する。 乳児期には親から授けられる栄養のみであるが、やがて自発的な摂食行動に伴って様々な分野の記憶が付加されてゆく。
快感を伴うものもあれば、不快なあるいは感情を超越した拒絶もある。 成熟期に至るまでの間に蓄積された経験の量と質・種類によって「嗜好」が生まれ、いったんそれが形成されるとなかなか変化しにくくなる。
“健全な肉体と精神とは”を定義することは甚だ難題であるが、ここでは一般的な理想の状態を想定して展開すると、それらを維持するためにはある程度の嗜好制限はやむを得ないこととなる。

偏食を重ねたヒトが次第にその肉体的健康を逸失してゆくのと同時に、目に見えない部分で精神的な障害が発生しているのはなかなか気づかない。 本人がそれによる不自由や不利益を被っているうちはよいが、周囲の人間やコミュニティーに対しての非常識な言動および犯罪に結びついているとなると放置できない事象だ。

勘違いしてはならないのが“個人の自由”や“人権”というものは、他人の自由領域を侵犯しない、あるいは利益の増大に寄与するという前提に保証されるものであり、それ単独では成立し得ない権利なのである。

つまり社会に所属してヒトとしての生活を営むためには、そこに至る期間すなわちコドモであるトレーニング期間にある程度のプログラム化された質的経験を踏まえさせて行く必要が生ずる。 これは画一化された感情や指向性を付与することが目的ではなく、あくまで平和な社会の中で一個人を確立させるための提案であり、誤解されぬようお願いしたい。

豊かな感情表現や他人への思いやりがどれほど食生活から反映されているのか、また逆にフィードバックするのかをここから論じて行くのも面白いだろう。

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2007年5月20日 (日)

記憶と味覚(2)

 食品を自然界にあるがままに直接手づかみで摂取することはほとんどなくなった。
 収穫し、調理し、器に盛り、道具を使用して口に運ぶ。 喫食者が最終的に目にするのは料理と食器のみであり、それまでの工程は意識の外にある。

 食味に関与してくるのは、提供者があえて情報(安全性、産地や生産者のプロフィール、調理の工程、従事者の経歴など)を提示しない限り、目の前にあるモノだけだ。

 うな丼やうな重はそれなりの器に盛られて提供されるからこそ名称の由来と食味が一致するのであって、店主の趣味の陶芸作品がいかにご立派でありナントカ展のカントカ賞ものであっても、客にとっては迷惑なだけで本来求めていた味から遠い存在であろう。

 近年このあたりを勘違いしている飲食関係者も多く、また客もお目出度くだまされキブンだけ高揚している。
 ピンクの器が「カワイイから」と、理由も深く考慮せずに採用された器の料理を、また客も「カワイイ」などとのたまって嬉々としている。 大切にしなければならない部分から眼をそらし、容易に共通項を捻出可能な表面性への感情表現によって周囲への連帯感を演出している。

 料理あるいは食品と色彩の関係は、野生の動物の捕食行動を例に多くの学術報告がなされている。 美味しく感ずる、といった感情もこうした事例と無関係ではなく、人間の本能行動によって制御されているのだ。 つまり我々が日常的に組み合わせている食材と栄養素の関係と、料理と食器の組み合わせの関係は相似形であり、種の保存本能(性的衝動)にも密接に関与している。

 幼児への性愛欲求や近親者の殺害行為などを、道徳観の変化だけでなく食構造・食文化の変異と結びつける私の論理は飛躍しすぎだろうか。

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2007年5月19日 (土)

記憶と味覚(1)

ある業界紙のコラムにこんなことを書いたことがある。

定番メニューは味付けを変えるな。お客様はイメージと違う料理を食べた時に、記憶の領域外に存在する味に対し単なる拒否反応だけでなく、それを楽しめないものとして固定化する傾向が強いと、と。

これはその料理を二度と注文してもらえないばかりか、その店の格や信頼度の極端な低下を招く大きな要因なのだ。 人間の機能器官は甘辛塩酸苦温冷を検知するが、記憶領域によってその正確な認識がズレてしまうことがある。 神経学的な解説はそのご専門の方にお願いするとして、とりまく環境によって大きく変化する味の認識について話をすすめよう。

一枚のステーキを食べに行く。

白い壁と高い天井、瀟洒な調度品と空間に流れるクラシック音楽。 真っ白なテーブルクロスとまばゆいばかりのシャンデリア照明。 美しい磁器の皿には温野菜とステーキが品よく置かれ、磨き抜かれた銀食器が添えられている。

もう一方は、岩穴をくり抜き岩盤むき出しの壁面にはオイルランプの赤い灯が点き、ゆらゆらと黒い影を落としている。 分厚い木のテーブルには長年の歴史が刻まれたかのような無数の傷跡。 運ばれてきた肉は炭の香りが鼻腔を強く刺激し、脂が音を立てている。 聞こえてくるのは薪の発するパチパチという音だけ。

どちらが美味しく感ずるのかは個人の置かれた状況と嗜好によるだろう。 だが、この店同士は背中合わせに建てられており厨房が共通だった場合を想定するとしよう。 もしウェイターが間違えて反対側の客に提供してしまったとしたら、モノを見ただけで客は順応する意思をなくすであろうし、口に運んでも旨くは感じることはない。

それぞれの置かれた場所や環境が変わっただけで、こんなに顕著な反応があるわけだ。 同じ条件下での比較はより敏感な注意を喚起し、記憶と変わらない現実に人は安堵し信頼を深めることになる。

選択肢として新たなチャレンジは必要だが、精神的な帰巣本能は他人が介在できるものではないことを肝に銘ずるべきであろう。

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2007年5月18日 (金)

知的環境(6)

 子供たちに「食」を通じて大切なモノとは何ぞや、を残そうと日々活動されている方々も多数おられる。 心強いばかりだ。 埋もれて行く伝統や知識・善き慣習はネット社会の一部でもその拠点を増やしつつある。

 野菜を通じて社会とかかわる方、料理を通じて伝える方、アクセサリーを通じて表現する方、マスメディアを通じて科学を解説する方…様々な方々との輪が繋がりつつある。 いかにしてこれらの軌道を合致させ、同期させるのか。 

 決して見失うことのない目標と、そこに導かれる人としての命。 「食育」という命題を共通テーマに集う英知の結合体を我々は創造しなければならないが、地球の温暖化やエネルギー問題、経済的な繁栄と知的水準の均質化といった相反する課題を克服しようとする機能は、その始点を平面と時間軸が曖昧になってしまった現在においては特定することが不可能なようにも思われる。

 原始の混沌状態(カオス)からアメーバが増殖していったように、我々の思惟はいつかどこかで結合し生体細胞としての機能を持つようになるであろう。 各個が大切に育む知性と物質的成果は、いずれ同じ生命体として子孫に受け継がれてゆくと信じたい。

 このSynapseが形成される頃には、単一方向性のみを維持するネットワークではなく、もっと複合的かつグローバルなソーシャル・ソースとしての核に成長してくれることを期待している。 先ずはこの趣旨に賛同し、積極的にご参加いただける方々を募っている。 各人のお知恵を拝借したい。

 

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2007年5月17日 (木)

知的環境(5)

 しばらく前の話だが、テレビの公開討論番組で(朝まで続くアレでご存知の方も多いと思うが)、元教師のご婦人~多分昭和一ケタか戦前生まれとお見受けした~が、“ 修身 ”の教科書を取り出して「これを復活させなければ日本は駄目になる!」と力説していた。 私としては拍手喝采、講演会なんぞが開催されるならばぜひ一度お話を拝聴したいものだと思って見ていると、そのコメンテーターの後ろに座っていたスタジオ参加視聴者(20代後半から30代半ばか)の一団の挙動と表情に、ほどんど憎しみに近い感情を覚えた。

 声にこそ出しはしていないが、その苦笑的表情と態度には {そんな時代遅れな、しかも戦前から引きずってきた尋常小学校の教科書なんか持ち出して…バカバカしい} といったものが読み取れた。 他人の意見を正確に汲み取る努力もせず、ただ“古い”の一言で簡単に却下し、なおかつ嘲笑するかのような人々。

 団塊の世代の子世代である。 あなたたちこそ世間から糾弾されるべき人たちではないのか。

 イジメ、基礎学力の低下、精神病の蔓延、免疫性の低下…非常に多くの問題が爆発的な増加をしている現在になおかつ 「食育」 を敢行しなければならない重さ。

 すべての問題の根源として 『道徳の欠如』 を挙げたい。 原因は全てそこに集約され、解決の道しるべもそこに回帰しなければ見出すこともできないであろう。

 日教組はそのイデオロギーの本質的誤謬を検証することなく、戦後の長きにわたり道徳教育の破壊を続けてきた。 子供は日本共産党の人質となり、気づいていても口出しできなかった親と、見て見ぬフリをしていた中央官僚と地方の小役人。 

 廃墟から立ち上がり経済的な復興に尽力してきた方々には感謝しているし、今現在私がこうして恵まれた環境で暮らすことのできるのも、先人のお陰である。 

 だが一方で、頂上の山小屋にすでに到着し、余裕をもってくつろいでいる団塊の世代から渡された荷物を背負い、今にも崩壊せんばかりの険しい山道を土砂降りの雨に震えながら「見えない頂上」を目指して歩み続ける…そんな気持に暗く覆われていることも確かだ。

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2007年5月16日 (水)

知的環境(4)

 相互に話し合いをするだけでは食料を手にすることはできない。 労働による生産物の物々交換、これが我々の生活の基本だ。 生産物は等価でなければ取引は成立しない。 文明によって貨幣が考案され、人々はそれを基準に生産行為を行う。
 この論理では生産物は貨幣に置き換えられ、また逆の道筋をたどり同じ生産物を手に入れる事が出来るはずなのだ。

 しかし近年の日本はこれが不可能になっている。 理論的にもその説明は正当化しようとすれば矛盾が生じ、あるトリックが明らかになってゆく。

 知的労働を提供した場合などにおいて特に顕著なことは、労働価値を低く算定提示し労働提供を受けた側がそれ以上の価値≒金銭を受け取るケースだ。 予想外にその労働が高い価値を生ずる場合もあるだろうし、雇用者側が労働提供の機会を創出してはじめて生まれる場合もある。 ここまでは故意による搾取とは言い難い。

 問題はその富を労働者側に再分配する機会が与えられるかなのだ。 その利益高は実績として積み上げ済のものであるから、再度依頼する場合はそれに応じた配分がなされるべきことなのだが、これを隠してしまう。 つまり詐欺をするのである。 これが労働搾取と呼ばれる行為なのだ。

 本来持つべき貨幣的価値から低い価格が市場に出回れば、競争の原理でさらに低いものが要求され、終末部分にそのシワ寄せが来る。 

 つまり正当な対価を支払わない者は最後に自分の首を絞めることになるのだ。 消費者側にも問題があると表明した訳はここにある。 過剰な鮮度や低価格の要求は結局のところ質や継続性の低下にしかつながらず、労働価値の低下を自ら創出することに他ならない。

 飲食は調理・提供を自ら行えば原材料の費用のみで終わるが、他人に代行してもらう場合はその労働に対しても対価を支払わなければ、欲しい料理は胃袋に収まることはない。 さらに誰もが簡単にできるものではない場合はなおさらのことになる。

 冷暖房が整備され、テーブルに着くやいなや水やおしぼりをサービスしてくれる。 美しい写真付きのメニューブックから食べたい物を選び注文する。 おなかが苦しいほど食べ過ぎても、食器や調理器具を洗ったり片づけたりする必要もない…。

 自らの労働報酬としての金銭を支払う時、どれだけの人がどれだけの努力と時間をかけて自分に提供してくれたものなのかを計ってみる必要があるだろう。 大切に育てられた食材を丁寧に運び、知識と経験を生かした調理を行い、効率のよい栄養素として提供してくれた…その事に対する感謝の念を子供たちに持ってもらいたい。

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2007年5月15日 (火)

知的環境(3)

 企業側や雇用者側の問題ばかりをクローズアップしてきたが、消費者あるいは被雇用者の側に責がないのかと云えば大いに問題ありだ。
 先にも書いたが異常なまでの鮮度要求は、食品購入者の知識不足や科学的理解の低さから発生する。 “製造年月日”“賞味期限”“消費期限”それぞれに別の意味合いを持つものだが、特に後の二つは混同されている場合が多い。 ここ数年は賞味期限だけを表示すれば法的によいことになったため、全く問題のない時間経過をした食品までが販売者はもとより消費者によって廃棄されている。

 天然資源もなくさらに食糧自給率の低い国民が、このような愚かな習慣を当り前のように続けていることへの危惧を持つ者はいないのだろうか。 スーパーなどの食品売り場へ行くと、実に不愉快な行動を取っている消費者が多い。 牛乳や豆腐など製造日から消費期限までが比較的短い商品などは、争うように棚の奥すなわち期限が一日でも遠い日のものからカゴに入れられてゆく。 これらの行動は安全性の追求や食味の追及から生まれたものではなく、ただ単に自らの管理下におけるリスクを先延ばしにする為だけにおこなわれている。

 某有名全国紙の「読者の声」欄においても同様の指摘をされておられる方がいた。 正直ホッとしたものだ。あまりに周囲の状況が私の思いとかけ離れているために、もしかしたら自分の考えは誤っているのか…と恐れていた部分があったからだ。 その方もやはり「公益性や道徳といった概念の欠如がもたらす弊害だ」としてお嘆きになっておられた。

 マスコミの情報量の違いもあるし、インターネット社会の口コミが程度の低い風説的結果をもたらしている場合もあり、一概に消費者責任の範疇と結果を定義することは難しい。 だがこういった事象の蔓延が教育水準の低下とともに進行していることに気付いている識者もいるはずだ。

 ヒトである前に、地球上の生物として食べてよいもの・いけないもの、ヒトとして摂取すべきもの・すべきでないもの、文明人として楽しめるもの・そうでないもの…この違いを子供たちに教示しなければなるまい。 簡素な表現であれば

     ・ 毒なのか 食べられるものなのか
     ・ 栄養成分なのか 健康を害するものなのか
     ・ 楽しめるものなのか そうでないものなのか

ということである。

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2007年5月14日 (月)

知的環境(2)

 食品会社による長期的かつ組織的な犯罪事件が頻発している。 数年前に雪印という大手老舗が製造工程の安全管理を怠り、長い間マスコミに話題を提供した。 過去にも食品への異物・毒物の混入事件がいくつかあったが、事件性のあったものは少なく、諸認識の不足による“過失”的意味合いのものが大多数を占めていた。

 近年この手の事件事故で顕著な問題は、それらが組織的に行われたり意図的に操作されたものが急増している点にある。 雪印の事件以来、大規模なプラントによる製造と大量販売という部分に大きな注目がなされ、消費者保護の観点での安全管理が改善される動きが拡大すると思っていた。

 ところがだ、BSE問題に端を発した「食肉産地偽装」、生菓子製造会社(これも老舗メーカーの不二屋)による「細菌検査記録の偽造と隠ぺい」など、倫理感の欠如した事件が後を絶たない。

 なぜだろう…

 経営成果至上主義、といえば恰好が良いがもっと解りやすい表現は「カネ儲け鬼畜」なのだ。 製造現場の労働者からの正当な評価賃金搾取に始まり、消費者にまで虚偽の表示による詐欺行為。 団塊世代の経営者たちはその事に対する“うしろめたさ”“責任感”“誇り”といったものを、全く持ち合わせてはいないのだ。
 犯罪の度合いには変わりはないが「持っていたのにやってしまった」ことと「何も考えずにやった」ことでは意味合いが全く別のものになる。 

 仮に多少でも倫理・道徳心があれば、先人の失敗は繰り返さぬであろう。 これはそこに至るまでの間に何も考えずに経営者としての職務を執り、対岸の火事として傍観しているからこそ発生し続ける犯罪事件なのだ。
 彼らにとってプライドとか正義感というコトバは、自らの怠慢と社会的責任からの逃避行為を裏付ける引き金になる存在なので、決して認めようとはしない。

 それどころか、その結果責任と経済的負担を立場の弱い次世代に転嫁し、曖昧な問題解決と故意による遅延あるいは瞠目によってのみこの場を切り抜け、火の粉を振り払っている。

 

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2007年5月13日 (日)

知的環境(1)

 食に関する知的発達は、生活する社会環境に依存する部分がほとんどを占有している。 一個の人間にとって一番身近で小規模な社会が家庭あるいは家族、次が職場-学校、地域、地方、国家の順であろうか。
 これに時間軸が絡んでくる。同じ環境であっても時代の変遷、テクノロジーの変化、気候的潮流の変動、紛争の有無などによって、その根本からして変貌を遂げてしまうことも過去に我々は体験してきたはずだ。

 誰にも予測のしようがない事柄だと言って無軌道な享楽を貪るばかりでは、修復できたはずの失敗も再び重ねられ次第に強固な岩盤となりヒトの力ではコントロール不可能なものになってしまうだろう。
 高度経済成長のポストシーズンは、加速度的なハードウェアとソフトウェア両方の進歩が我々日本人の眼力を曇らせ、一番大切なことの維持と蓄積・修正を無視し続けてきたのだ。

 「一番大切なこと」 とは『子孫に遺す豊かな文化』である。

 豊かな文化…それはヒトとしての健康であり、ステージの高い知性・知識、より自由度の高い創造性、好奇心や知的欲求を受け止められる社会構造の事である。
 そしてそれらを実現するためにモノやテクノロジーは進歩し、次々と生み出されてゆく。

 真面目に働きさえすれば豊かな生活を得られた時代はすでに遠い。それどころか真摯に労働し周囲との協調と向上に心血を注いできた者が、利己的で狭窄な思惟しか持たないある世代と団体によって見事に踏みつぶされ、片隅に追いやられる事態が発生している。彼らは社会の実権を握る時の訪れとともに、保身と社会資産の私物化を見事なまでに正当化し、義務を放棄してきた。

 その結果の現在の日本社会である。

 道徳の教育を家庭と学校で消去し、自らの所業の是非判断を他人から奪い取ったその悪意。 彼らの犯罪をこの章で明らかにすることで、これからの「食育」がどうあるべきかをあぶり出してゆきたい。

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2007年5月12日 (土)

偏食(6)

 畜肉に比べて魚介類はその生物的種類も多く、系統的理解をするのはやや困難か。だが居住する地域に限定した機会が与えられるのであれば、また別の話だ。
 この時期にこんな魚が獲れ、その時期にはどんな魚が姿を現し、と自然界の移ろいと共に様々な食材との出会いを体験できる。そこに生きる人々を知り、生業のなんたるやを体感する。

 まさに食育ではないか。

 生まれ育った土地のサカナを調理し口に運ぶ、親から子に引き継がれるその事一つ一つが偏食と云うおかしな現象を消去してゆくだろう。そもそも食べられるはずのモノが、単なる嗜好や勉強不足によって選択肢から外されてゆく現代の病理は、団塊の世代が何も考えずにセットしてしまった悪行にほかならない。
 いくつかのアレルギー、なんとかシンドロームなど気づかぬうちに治癒される食の構造が社会的な潮流となって我々の生活を潤してくれることを願うばかりだ。

 巷に溢れる完全な異常といえる“スリム願望”。小顔、理想のプロポーション、ナントカダイエット…およそ本来の健康とは無関係なコトバが並ぶ女性雑誌や広告。 そしてそれを善しとする、情けない男たち。
 あなたはモデルにでもなりたいのですか?彼女たちは職業として自らのカラダをコントロールし、いわゆる“(写真)うつりのよい”身体に仮住まいしているだけなのですよ。お気持ちはお察し申し上げますが、我々日本人は祖先が肉食民族だった欧米の人種とは骨格構造からして全く別のホモサピエンスであり、どだい無理な話なのです。
 無駄なことにお金と時間を浪費するのは今すぐ止めて、内面の美しさでも磨き始めませんか? その成果を心の底から尊重してくれる品格ある社会は、今あなたがこのことを認識し実行することから始まるのです。

 小学生が「太るから」などと云うコトバを発している限り、お題目だけ“食育”を唱えても何ら解決の道は開かれない。 根本的な倫理や道徳というものを、学びの舎に復活させようではないか。

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2007年5月11日 (金)

偏食(5)

 有用資源の少ない我が国にとって必要な糧食の大部分を輸入に頼る現状を、どう説明し解決してゆくのか。それも食育を語る上で非常に重要なポイントだ。
 安価な輸入食材に依存し、国内の一次産業の育成を怠ってきた行政の責任も大きい。サカナ離れはそこにも起因していることを、多くの為政者は認識する必要があるだろう。 国内で保護育成する漁業資源とそれ付随する産業、そして就業人口の増大を図る政策が論議されていない。 もっと大きな枠組みを生成し、義務教育世代からそうした概念を意識づけすることが、どれほど国家の将来に太い柱をもたらすものなのか、ポケットゲーム機やケータイメールで遊んでいるヒマなどないのだ。

 一次産業の衰退は何も漁業だけに限ったことではないことは周知の事実だろう。 農業にしろ畜産業にしろ、生産物の本来持つべき価値が正当に評価されておらず、経済的に成立しにくくなっているのも見逃せない。
 鶏卵や生乳の価格は何十年も以前から変化はなく、生産者への圧迫は日々増大の一途をたどっている。こうした製品もいづれ輸入に頼らざるを得ない状況に陥るのを、指をくわえて見ているしかないのか。
 偏った産業の育成・保護政策が糧食関連の一次産業への就労人口減少を招き、産業構造は大きく変化した。科学技術や先端産業は我が国の大きな柱に違いないし、これからもそのための大きな努力が払い続けられるであろう。
 しかし、海外からの安価な労働力の流入に頼ったそれらの産業が大きな利益を計上している反面、失業者の数も年々悪化傾向にある現実をどうバランスさせ、かつ国家の将来につなげて行くのか。

 私は食糧自給率の向上がその浮沈のカギであると確信している。 そのための食育でもある。 一見豊かなモノたちに囲まれ上級の生活を満喫しているように見える日本。 現実は砂上の楼閣どころの話ではない。 楼閣ならば石も残るし文化も遺産として伝わる。

 “砂上のプレハブ”

 最もふさわしいコトバであろう。 いずれは朽ち果て、その存在を知る者は誰もいない、忘却の彼方。 日本人よもっと自信を持とう!という掛け声も耳にするが、知識も論理も教育も技術も持たない者がいくら吠えても欧米諸国やアジアの有志立国からバカにされるだけだ。

 結果が出始めるのは早くて100年先だが、今ならまだ間に合うと思う。

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2007年5月10日 (木)

偏食(4)

 確かに魚の小骨はやっかいだ。サカナの味は嫌ではないが、それが理由で遠ざけている子供も多いだろう。上手に箸を使えないのも原因の一つかもしれない。
 テレビ番組などでヘンな箸の持ち方をしている芸能人が多いのも気になる。 日常的にそういったものを見慣れてしまうと、箸の持つ機能や利便性、食事の作法・心得といったものへの意識は低くなるだろう。これでイイ、悪くはない、フツーなどと思ってもらっては困るのだ。
 担当のディレクター殿には、そうした出演者に対して厳しい対応をするようにお願いしたい。公益性のある電波に乗せて放送を行うのであるから、正しく箸が使えるようになるまでは出演禁止といった規定も必要だ。 これも食育の一環として文部科学省などの介入もあって然るべきことと思う。

 何か一つの命題に対し著述しようとすると限りない問題点が浮かび上がり、倫理感が低下している現在の状況ではすべての解決策に対して無間地獄が待ち受けている。
 本来はこの場で食育に関する問題を洗い出し、改善提案をする方向性を見出そうとしているのだが、放送の問題などに言及し始めると例のライブドアとフジテレビの係争などを思い出してしまう。 平素は低俗な娯楽番組をタレ流しにしている局が、そんなときばかり「公共放送の倫理」「報道の自由」などと、もっともらしい論理を振りかざして既得権益を守ろうとしたその姿に、激しい怒りを感じたのは私だけだろうか。 

-話を元に戻そう。

 学校給食や介護食用に“骨なし切身魚”もある。中国やベトナムなどの人件費の安いアジア諸国で加工され、日本に輸入されたものだ。 介護食に関してはそれもまた良いだろう。
 しかし学校給食に果たして本当にその導入が必要なのだろうか。それではトレーニングが成立しませんよ、第一小骨がのどに刺さって死んだ子供はいないのですから。
 私が子供のころ、そうなった時はご飯を丸呑みしなさいといわれ、目を白黒涙しながらやったものです。実はこの対処方法は実に危険で事態を悪化させる可能性が高いらしい。医者にかかるのが一番だそうな。

 

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2007年5月 9日 (水)

偏食(3)

ここに一枚の鰈(カレイ)があるとしよう。 思いつく料理を挙げると
   1. 煮付け
   2. 唐揚・フライなど揚げ物
   3. 塩焼き
   4. 蒸し料理(素蒸し、酒・ワインなど含む)
   5. バター・ソテー(ムニエル含む)
   6. 塩干加工後焙り焼
   7. 燻製
 まだまだあるが、煮付けひとつとってみても様々な調理方法が浮かび上がる。醤油ベースの和風の煮付けであれば丸ごとなのか、卵がはじける切り身なのか、近海の小ぶりなものなのか、輸入物の肉厚たっぷり脂なのか。 それぞれに全く違う顔を見せる。バターやクリームを使えばさらに範囲は拡大する。
 揚げ物にしても下味をつけて竜田揚げにするのか、衣を厚くして中華風の野菜あんをかけるのか、別のソースを添えるのか…。以下同様である。

 カレイだけで献立一か月分では不足する。利用可能な魚介類でそれぞれこうした作業を行うと、献立の全てを導入することが不可能になってしまう量のレシピが出来上がる。
 これらの学校給食へのフィードバックは不可能と思われる向きも多いだろう。やれ設備が、人員が、原価がと“やらない理由”はいくらでもつけられる。できれば真面目に働きたくない慢心栄養士さんなどは、顔を真っ赤にして反対の狼煙を上げるに違いない。

 そこには何の進歩も生まれないし、逆に子供たちの意識の退廃が進行するだけの時間が過ぎてゆくだけだ。食育を真剣に構築しようとするならば、先ずこの原点から出発しなければすべてが「付け焼刃」に終わり、成果は絵に描いたモチのそのまた先送りとなる。得をするのは団塊世代の小役人とセンセーだけだ。

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2007年5月 8日 (火)

偏食(2)

喫食側と提供側に共通しているのは

   ・生臭い
   ・知らない魚はコワイ
   ・小骨の除去に関する問題
   ・美味しいと思わない

といった所か。 そもそも魚介類は生臭くはないのであるが、その保管方法・下処理・調理知識技術といった取扱い方法によって不快な臭気を発する恐れもある。
 流通の技術発達によって魚介類は驚くほど新鮮な状態で店頭に並ぶようになったが、肝心の消費者がその後の処理に手を抜くために関係者の努力が反故にされている。

 消費期限・賞味期限といったコトバの意味を正確に把握していないがための、過剰なまでの鮮度に対する要求。
 子供たちに食べ物の「安全性」と「感覚的可食性」そして「物理的可食性」をきちんと分別して理解させなければ、この問題は永遠に解決しないだろう。 団塊の世代を中心にした今のオトナ社会構造に対してはもう諦めた方が良いかもしれない。 せめてこれからの青少年にその力を注ぐことの方が、エネルギーが無駄にならないだろう。

  固定概念をすでに抱いてしまっている子供に、それを覆させるのは非常に困難かもしれないが、食育と云うものを真剣に考えるならば関係者はかなりの忍耐と努力を継続し「美味しいサカナ」を提供しなければならない。机の上でいくら説いたとしても、人間の五感は反応しないのだ。

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2007年5月 7日 (月)

偏食(1)

 子供たちが魚を食べなくなった(というよりもオトナが子供に魚を与えなくなった)のは、いったいいつ頃からなのだろう。

 要因をいくつか列記してみる。

 - 喫食側の理由
   ・骨があるので食べにくい
   ・のどに骨が刺さった経験から嫌になった
   ・生臭い
   ・味が薄い または 無い
   ・内臓が気持ち悪い
   ・魚体の姿を見るのが嫌
   ・焼き魚や煮魚のニオイが嫌
   ・生食で腹痛を起こしたことがある
   ・細かい部分が多く食べにくい、食べられない
   ・とにかく美味しいと思えない
   ・知らない魚がコワイ

 - 提供側の理由
   ・調理に手間がかかる
   ・上手に調理できない または 調理方法を知らない
   ・生臭い
   ・魚体や切り身に触りたくない
   ・種類が多くて選択できない(知らない魚がコワイ)
   ・骨を除去してやるのが面倒
   ・アレルギーを起こされるのが嫌
   ・美味しいと思わない
   ・肉の方が安い
   ・調理器具の洗浄が面倒

まだまだいくらでもあるがキリもなく列挙されるので、このあたりで止めにしておこう。次項でこの分析をしてみよう。

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2007年5月 6日 (日)

学校給食(6)

 コドモとはオトナになるためのトレーニング期間である。トレーニングとは現在できないことをできるように動機付けし、導き、実行させ、最終的に自発的習慣化することである。
 給食に限らず最近のオトナはコドモに迎合しすぎてはいないだろうか。それとも一見オトナ風なだけで中身はコドモなのか。学校給食献立表にはこんな注意書きが添えられている

「さかなには、ほねがあります ちゅういしてたべましょう」

 また別紙には「やさいをたべよう」とあり野菜の効能から栄養素の説明、「春野菜がたくさん登場」「季節を感じ取ろう」などの文言が並ぶ。おお、素晴らしいではないか…と献立表を見れば、毎度おなじみのメニューが並び春野菜の特徴をピックアップした料理などどこにも見当たらない。

 詐欺である。

 表紙だけ調子の良いものを作っておいて、実際の中身は通期メニュー。これではインチキ健康食品販売会社と同質だ。栄養士という白衣をまとった犯罪人。

 全体を見渡せば問題点も限りなくあり、また個々の事象を捉えてもさらなる欠陥が噴出する。例えばメインが魚料理の日の添付食に「こざかなアーモンド」。噴飯ものである。体内でのとう留時間が短いカルシウムは一度に大量に摂取しても無駄になるだけで、ちょっと料理を真剣に科学する心のあるものならば既知の項目だ。机上のお勉強しかしないなら、それぐらいの事はしっかり把握しておいてもらいたい。
 「さばのみそに」に「ごまみそしる」。クドそうですね。これでは美味しいものまでまずくなる。栄養価的には問題ないのかもしれないが、私の持論としては“見た目が悪い料理はそれだけで落第”。

 見た目というのは眼で見るものだけではない。舌や耳や鼻や手や五感すべてを指している。コドモにそれをトレーニングしてもらいたいのだ。美味しい、楽しいという感情で摂食した方が吸収栄養価も高いというデータもある。

 残念なことにオトナ風栄養士さんは社会的なステータスと経済的余裕を与えられ、大変ご満悦の様子。万事こんな調子だ。

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2007年5月 5日 (土)

学校給食(5)

給食センターにおける栄養士とは、いかなる職務を与えられているのだろうか。

 献立の立案と栄養価計算、食材の発注・検品、細菌検査のサンプル採取・保管…こんなところか。重要かつ時間を要するものは最初の項目だろう。何も知らない素人(大方の保護者がこれにあたる)は能力や経験も必要な大変な仕事だろう、と思っているに違いない。確かに本来そうあるはずのものだ。

 ところが実際に児童の口に入る食事の内容と勤務実態を精査してみると、驚くべき事実が判明する。

  • 献立(主菜および副菜の組合せ)はせいぜい120種程度で、それを年に3サイクルさせる
  • すでに出来上がっている献立は栄養価計算は不要
  • 過去に提供実績のない新メニューは年に数回
  • 栄養価計算そのものはパソコンソフト導入で家庭の主婦でも可能
  • 社会での実務経験のない(つまり机の上での料理しか知らない)栄養士のみ
  • 職員としての民間研修は皆無
  • 全学年共通献立(数量のみ変更が加えられる)
  • 発注価格の決定は入札価格のみ=市場価格を未認識 など

 私たちの税金はこんなところにも捨てられているのである。この程度の能力を持つ人間はいくらでも存在するし、確かにこれなら食のプロフェッショナルである必要もない。ただ問題はこのシステムを監視し、検証する機会が保護者および第三者に与えられていないことにある。

 栄養士は法規上不可欠な存在なのでポストをなくす訳にはいかないが、ボイラー技師も含め一名の所長ポストに兼任させるのも民間では当然の流れだ。

 子供たちの安全と味覚や見識の発達をゆだねている組織が、こんな実態であることにあなたも疑問を抱かずにはいられないでしょう。

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2007年5月 4日 (金)

学校給食(4)

 給食センターが取り組んでいることの一つに、献立への地元特産品の導入がある。地域の産業・文化・社会構造を「食」を通じて学んでゆく、という素晴らしい取り組みだ。地産地消というコトバをまさに実行し、最終的にはエコロジーにも繋がってゆくことであり、大いに賛成したい。

 また、サカナ離れが指摘されている現在、積極的にその導入を行っている点も高い評価を与えたい。子供たちに魚介類の旨味をもっと体感してもらいたいし、畜肉にはない栄養素とカラダに対するストレスの少なさを利用しない手はない。

 ハンバーグやベーコン・ソーセージといったものが悪いわけでもなく、食生活が豊かになった今は必要不可欠な存在であろう。だが、近年平均身長が飛躍的に伸長し脚の長い日本人が増加した理由は、ここ数十年の摂食行動と生活・居住構造・習慣の変化がもたらした結果であり、われわれ日本人が元々持っているDNAはやはり草食民族のそれであることに変化はない、という論文をエッセイストの玉村豊夫さんが書いておられる。

 彼が主張する重要な点を要約すると「日本人は動物性蛋白質を正常に消化する動物的能力が低い」ということなのだ。食物アレルギー、アトピーなどの疾患急増もこうした部分に起因するのではないか、と私はにらんでいる。
 もちろん生活のレベルアップによってもたらされた膨大な種類の食品・食材には、過去に存在しなかった食品添加物や有害物質、環境ホルモンも含まれているだろうし、複雑な要素が絡み合って引き起こされていることなのであろうが、元来持っている遺伝子はそんなに簡単に変わるものではなく、数世代の環境変化によって少しづつ型を変えてゆくものなのだ。

 疾病というカタチで表面に出ている間はまだよいが、知的生物としての根幹が揺らぐような変化が起きない…とは誰も証明できていない。厚生労働省をはじめ各機関が連携しこの問題を早期に解決しなければ、現在の豊かな生活は夢のまた夢だったのか、というよりも先人に我々の夢は食い潰された…と未来の子孫たちのそしりを受けることになりかねない。

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2007年5月 3日 (木)

学校給食(3)

 学校給食法第一条に

 「児童および生徒の心身の健全な発達に資し、かつ、国民の食生活の改善に寄与すること」

 と謳われている。 また第二条には4つの目標が掲げられている

 1. 日常生活における食事について正しい理解と望ましい食習慣を養うこと。

 2. 学校生活を豊かにし、明るい社交性を養うこと。

 3. 食生活の合理化、栄養の改善及び健康の増進を図ること。

 4. 食糧の生産、配分および消費について正しい理解に導くこと。

 これは市立学校給食センターより配布された「給食だより」に掲載されていた項目だ。なるほど、ごもっとも。ただし問題点も多くある。

 まず命題に対して達成するためのプログラムが提示されていないこと。文部科学省よりの指針が地方自治体の教育委員会および各学校現場のとらえ方の違いにより、本来全うすべきポイントが曲解され、あるいはスペックダウンされて実行された事実は、先般より学力低下の根源と言われている“ゆとり教育”による禍根によって既に証明済みだ。

 そして目標各文の語句そのものもにどれだけの意味と意志があるのか、説得力に乏しく真意を汲み取りにくい。
 この法が制定されたのは、いったいいつごろなのだろうか。おそらく我が国に未だ道徳というコトバが死んではいない時期だったであろう。

 疲弊し堕落した現状を鑑み、これも今一度リセットし新たな動きを見出さねばならない。

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2007年5月 2日 (水)

学校給食(2)

 郊外型の大型ショッピングセンターの駐車場、開店前に足を運んだことがあるだろうか。早朝に行ってみるがよい、クルマの駐車枠の白線部分に点々とあるものが置かれている。一つや二つではない。

 近づいて見るとケンタッキーFC、マクドナルド、ロッテリア、ミスタードーナッツ…などファーストフードの有名店のロゴの入った袋。ちらほらとそのスーパーの袋もあり、中には弁当や総菜のゴミが見える。

 夕食時にクルマの中で子供に食事をさせている母親の姿はよく目にするが、
原因はこれだったのか。 食べ終わったら窓からポイ。

 そもそもクルマの中で夕食…日常的な行為として…とうのも問題であるが、与えるものがファーストフードあるいは弁当・総菜、実に嘆かわしい。 それに輪をかけるポイ行為。

 団塊の世代が育てた無責任世代が、この国の未来に向かって育つ芽を食いちぎっている。学校給食を通じて、また社会活動の一部として行われ始めた「食育」だが、こんなステージでいくらもがいてみても徒労に終わるのではないか…という不安が押し寄せる。

 食育しなければならないのは、子供だけでなくその親の方だろう。そしてまたその親の親にも責任を感じていただきたい。労働の対価としての金銭を、単なる物質交換の道具としてしか扱ってこなかった団塊の世代は「食べ物を粗末にする」というボキャブラリーを持ち合わせてはいない。
 自ら努力する・磨くことを放棄し、他人を蹴落とすことによってのみ自らの存在を確立してきた団塊の世代。そこに育った子が次の世代にいかなる教育を施すのか、言わずもがなである。

 “食”というものに対する基本概念を今一度リセットしてもらいたい。

 

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2007年5月 1日 (火)

学校給食(1)

 学校給食献立表を見ている。平成19年5月分だ。
5月1日、表の第一行目にいきなり「おべんとうの日(えんそくのよび日)」とある。給食センターは休日なのだ。
4月の27日に遠足が実施されたが、当然この日は給食はない。翌日は土曜日、日曜日-振替休日と続き、黙っていても4連休。プラス予備日もお休みで5連休である。5月2日には給食が運ばれるが、翌日の3日から6日まで4連休。いやはや恐れ入る。

 前週の金曜日には遠足の実施可否は把握できているのだから、翌週の火曜日に給食を実施できない理由は見当たらない。民間の食材業者はどこも必死に営業をしているのだから、当然土曜日にも注文は受け付ける。

 小中合わせて29校、約12000食を毎日提供しているようだが、給食センターの職員数をみて驚いた。所長1名、事務2名、栄養士3名、ボイラー技師1名、調理員52名、配送(委託)7名だそうな。実に余裕のある人員配置ではないか。

 5月2日の献立は「 ほそたけごはん わふうハンバーグ わかめのみそしる ? 」
となっているが、?っていったい何なのか。ほそたけは今は旬ではないし缶詰か業務用のレトルトであろう。ハンバーグも給食用の冷凍食品だ。
 これだけのモノを提供するのに、その人数は不要であろう。もし最小限の人員で出勤しているならば、大方の人間は休日で10連休。年間休日の帳尻合わせに全員出勤しているならば、ほとんどプラプラヒマヒマ状態。どちらにしても怒りで脳幹にうっ血しそうな勢いだ。

 学校給食センターの職員採用実態については、本サイトの趣旨から外れるので触れないが(本当は暴露したくてうずうずしている)いづれ別の機会に発信できると思う。

 「食育」の名のもとに、もっともらしい理由をつけて個人的な利益を集団で権益化している公務員たちよ、よく聴きなさい。
 戦後の食糧事情から、児童の栄養状態の維持のために体制整備されてきた学校給食。こんなに豊かになった現在、旧態依然のイデオロギーでの継続は困難なのではないか。すでにイギリスの一部地域では始まっている学校給食の改革~給食革命~と彼らは呼んでいる。我々民間に比し高額な俸禄を食むものとして、恥ずかしくはないのか。

 子供たちの将来のために、まともな献立と提供方法をただちに実施せよ。
わからなければいつでも相談に乗る準備はできている。ノウハウは当方が持ち合わせている。
  

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