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2007年5月31日 (木)

利便性の功罪(1)

 狩りに出かけ獲物を得て帰り、小さな単位社会の中でそれを分け合って食料とする。 あるいは野山を切り開き作物を育てては収穫する、そんな生活が全てだった古代。 獲物に逃げられることもあったであろうし、天候の具合が植物の生育を阻むことも少なからずあっただろう。
 現代社会はそうしたリスクを負わずに容易な糧食の確保が可能になった。 冷凍食品からレトルト・パウチ、カップ麺などスーパーに買い物に出かければ、ありとあらゆる加工食品があふれている。

 だが畜産業・漁業・農業いずれをとってみても、収益を得る基本的な構造は古代と同じである。 自然と共に生き、逆らうことのできない大きな法則によって支配されている。 見方によっては一番割の合わない職業かもしれないが、それも人類の知恵と技術の発達が養殖や品種改良といった成果を生み、リスクの細分化を可能にした。    ただそのリスクは消滅したわけではなく、自然界の法則は現在も生き続けており様々な形で我々の生活に影を落としている。

 もともと文明は食糧の安定した確保のためだけに発達していた。 他の生物種に比して高等だったとはいえホモ・サピエンスとて生物であり、生まれ・食い・成長し・絶えてゆくだけである。 その知性の発達と蓄積が生命体の存続に必要なエネルギー確保を合理的な形で文明化し、繁栄を築き上げてきた。
 個体の生存率が格段に向上した人類は、次々と別の文明を生み出しやがて文化も創造し始める。 自然界のリスクから距離を置けるようになり、そこから解放されたと勘違いした人類はやがて自らの欲望と無謀な夢のために地球の破壊活動に手を染め始めている。

 温暖化や異常気象の頻発、人為的な種の絶滅といった問題はここ数年注目を集め、各国の機関がその対策と解決のために奔走していると聞く。 利便性の追求は我々の文明・文化の起点でもあり、その恩恵を我々自身が享受しているのであるが、同時に現在人類が内包する諸問題の出発点もそこにある…というのがこのチャプターの要旨である。 

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