2007年6月10日 (日)

調理の技~煮る

 “蒸す”ことの延長線上には“茹でる”あるいは“煮る”といった調理方法が存在する。 水を介して直接食材を加熱するこの方法は、加圧しない限り100℃以上にならないという大きな特徴を持つ。

 潮だまりに落下した隕石が水を沸騰させ、そこにあったものが可食状態になっていたのがヒントになってこの方法が生まれたとも言われている。 器がなかった時代は水や海水を引いた穴に焼け石を投げ込んで調理していたのではないか、と想像される。 そして器の製造技術の進歩がこの調理方法を飛躍的に一般化させるのだ。

 水分を失うことななく、または補いながら加熱する調理技術は食材の保存方法や一次加工においても大きな変化をもたらし、またヒトの生活の安定や産業構造に効率という概念を植え付けることになる。 植物・農産物を乾燥させたり畜肉を塩蔵しても可食領域に戻すことが可能になると、そこには従来の塩分だけでなく香辛料や調味料といった工夫が派生する。

 それまで生物としてのエネルギー摂取だった食事が快楽を目的とした行為に変化する、つまり文明から文化に変貌したのである。 もはやこの地球上では一部の途上国を除き、食事を生物学的な栄養補給行為ととらえる向きはないだろう。 だからこそその原点に立ち返った視点で見つめなおすことで、これからの“食”のあり方を検討し直すべきではないかと思うのである。 快楽目的の食が悪いと主張しているのではない。 筆者も原始に帰ろうなどとは夢にも思わない。

 だがチベットやモンゴルの奥地では現在もなお羊の肉をコトコトと煮ては調味料をつけて食する、という伝統が面々と引き継がれている。 なぜならヒトのカラダが要求するものに対して過不足なく摂取する目的と、旨味や食感といった快楽を目的とする部分が絶妙なバランスによって成立しているからなのだ。

肥満やアレルギーなどのシンドロームが存在しない、快適な食環境を構築する指標としてどうであろうか。

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2007年6月 9日 (土)

調理の技~蒸す

 焼くことの次に出来たのが“蒸す”技術だ。 焼け残った薪の下から出てきた食材、手にすると柔らかく焦げてもいない。 口にしてみれば今まで経験したことのない旨さがあるではないか。
 いわば蒸し焼きなのであるが、これが蒸す料理の原点だと言われている。 次第に植物の葉でくるんで焚火の近くで加熱したり、焼けた石を使った蒸しものが広く行われるようになる。

 熱源から離して加熱するこの技術は、食材自身が持つ水分に依存する場合と、外部から水蒸気などを供給して行う場合の二つに分けられる。
 前者はその加熱プロセス上焼く状態に近く、鯛の浜焼などが塩に包んで蒸し焼にする料理の代表的な例である。 
 一方シュウマイなどの料理は高温の蒸気を直接食材にあて加熱する調理方法で、一般的には“蒸す”と云えばこちらを指す。

 面白いのは私たちが日ごろ茹でたり焼いたりといったコトバで表現している料理であっても、加熱プロセスにおいては蒸しているものも少なくない。
 栗の実は生では食用にならないが、焼いたり茹でたりしてそのデンプン質を糖化させ食用にする。 皮を剥いてしまわない限り、皮に固く包まれた内部の実を蒸す状態になっている。 もちろん焼けた皮の香ばしさなどが食味に大きく影響を与えるのだが、内部の水分に依存している点は変わらない。

 この部分をきっちり理解し識別できるようになると料理の幅は格段に増加し、また新たな食味の創出が可能になる。 高名なシェフや和洋中の料理研究家の作品は、こうした部分の高度な応用によるものが多く、大いに参考にされたい。

 蒸気を当てて加熱する方法も、食材の持つアクを上手にコントロールできる点、そしてソフトな食感を容易に実現できる手段として良く知られているが、ヒトの体に無用な成分を効率よく排出してくれる調理方法としてもっと注目されても然るべきであるかと思う。

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2007年6月 8日 (金)

調理の技~焼く

 本来動物は火を恐れるものだ。 古代は火山の噴火や隕石の落下によって生じた火災が、生物としての生命の危険に遭遇するという信号を遺伝子として受け継いでいるからだ。
 だがヒトは焼け残った動物の肉を食した時に、その旨み成分の変化と鼻腔をくすぐる芳香に新しい喜びを学んだと言われている。 おまけに生では摂取不可能だった鮮度劣化食材も見事によみがえり、一石二鳥の文明を手に入れた。

 栄養成分の変化もサルからヒトへの進化に大いに役立った。 ヒトはすぐに火をコントロールする技術を習得し、先ずは食材を焼いて食べるということから料理の歴史は始まる。 単純に炙る調理から香辛料や調味料の使用といった高度な文明も間もなく芽生える。

 現代社会において“焼く”という行為は最も原点に近い調理方法だが、テクノロジーの発達で容易にその長所を生かした食事ができるようになった。
 串や網といった直火調理から金属やセラミクスを介した間接加熱まであらゆる方法が一般的に行われているが、外食産業など大量調理の必要な企業では大型のコンベクション・オーヴンといった加熱方法を複合処理できる器具が扱われ、従来の単純な調理過程では生み出し得ない新たな味の創出に成功している。

 筆者もこのコンベクション・オーヴン、導入を検討しているのであるが、小型のものでも価格は自動車並みだ。 仕方なしにイタリア製の電気式コンベクション・レンジで我慢している。 とはいうものの、その小型レンジもどうしてどうして結構な活躍ぶりだ。 付属のストーン・プレートなどピッツァを焼くときには必要不可欠な存在であり、簡単に石窯焼に近い状態が再現可能でもうこれなしでは考えられないほどだ。

 家庭用の加熱調理器具として電子レンジは必要不可欠な存在になったが、近年は多機能化し一台で何役もこなすマルチな才能を発揮している。 だがどの機能も中途半端で調理の本道を満足させるものはない。
 日本人もそろそろそのあたりに気付いて、電子レンジは解凍と補助加熱のための単機能機器である認識を持つべきだろう。 一番安価な電子レンジにコンベクション・レンジと蒸し器の組み合わせが、はるかに美味しい料理が可能で、なおかつ経済的にも負担が小さいからだ。 

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2007年6月 7日 (木)

調理の技~生で食べる

 単なるエネルギー源として物質を摂取していた過去から、現在は食糧として扱われるようになった食材。 自然界のものをそのまま何の加工もせずに口にできる食材もあるが、私たちが日ごろ吸収しているものの大多数は加工した食材だ。

 “生”という言葉は、加熱や乾燥その他の加工がされていないという意味のほかに、生きているという意味も含む。 豚や牛を生きたまま食すというのはいささか趣を異にするが、実際私たちは植物をはじめ魚介類などはかなりの頻度で生きた状態での食用を実践している。
 調味加工せずとも非常に旨みを感ずるものもあり、そういった感情を抱くということは体が自然に要求しているものなんだな、と逆に証明された感すらある。

 だが地球環境といった大きな視野に立たなくても身近な環境の変化によって、生で食べられる食材の選択肢はだんだん小さくなってきているのではないか、と思える。 化学的な汚染物質の蔓延や人工的な遺伝子操作によって摂取が危険な食材が増加しているからだ。
 現代の快楽的食事~私はこれを否定しているのではないし、むしろ文化の昇華として歓迎しているのだが~は本来の生理欲求としての食から乖離し、その目的達成のために手段を選ばなくなってきている。 情報の氾濫や行き過ぎた安全衛生追及が生物としての要求基準を大幅に上回り、誤解や錯覚に気づかぬままに浸透している。

 何でもかんでも無加工で食せよといった暴力的な発想は誤りだが、どんなに清潔な設備で素晴らしい調味と加工が施された料理であっても、その素材そのものが汚染されていたり将来に疑問を抱く可能性のあるものでは意味がないのである。

 もう一度「生でも美味しい」といえる食材保護のプログラムと取り組みが必要な時期に来ている。

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2007年6月 5日 (火)

利便性の功罪(6)

 そして筋違いの知識は消費構造にも変化を加えた。 いつでもどこでもすぐに手に入る食品供給体制を消費者と供給側が躍起になって作り上げ、夢の飽食国家は出来上がった。

 技術の革新は工業製品だけでなく、食品加工やその搬送にも利便性を付与してくれる。 朝、下関に水揚げされた鯖は瞬く間に築地に“生きたまま”運ばれ、夕方には我々の食卓を賑わす。 北海道で収穫されたアスパラは航空機で太田市場に運ばれ、翌日には大阪の串揚げ屋でベーコン巻にされている。 生産者も消費者の要求に合わせ出荷の時刻を調整する。 

 地産地消をどんなに声高に叫ぼうと、大方の消費者がソコの部分を理解し行動しなければ商売人は利益の上がる方を選択するだろう。 かくして地元産品は鮮度を失い商品価値のないものとして廃棄処分される運命となる。

 これらの事象は地域社会の経済問題だけでなく、長距離輸送量の増大に伴う環境汚染問題、不要なエネルギー消費といった国家的あるいは地球的な損失として計上されてゆくのだ。
 現在の消費構造が変わればそれに伴い産業構造も別の形になるだろう。 失業の心配をする向きもあるかもしれないが、杞憂は無用だ。 構造改革を計画性をもって執行すること、すなわち従来の産業から一次産業へのシフトを国家プロジェクトとして段階的に行えば、より健全な体質の国家に生まれ変わるだろう。

 ハコものや道路・空港といった巨額予算だけに目がくらんでいたゼネコンも、国家指導のもとに海洋資源生産巨大企業に変身できるだろうし、安全で高品質な農業生産品のコンダクターになれるチャンスもある。
 豊かな国創り、美しい国づくりは「食」をいかにプロデュースできるかにかかっている。 先端エレクトロニクスもそれからでいいではないか。

 「付け焼き刃」という言葉の意味を、わが身に照らしてもう一度確認すべきである。

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2007年6月 4日 (月)

利便性の功罪(5)

 ブログ大国ニッポンでは面白い現象があり、個人の日記的要素の強かったウェブログに大手の通販企業のアフェリエイト広告が蔓延している。 家電製品から書籍・音楽CD・映画DVD・化粧品・健康器具までありとあらゆるものが網羅されており、中にはそのサイトの目的がなんであるのかさえ判別がつかないものもある。 閲覧数の多いブログには企業側からのアプローチもあるという。

 当然その中には食品も存在し“お取り寄せグルメ”の人気もかなりのものらしい。 自宅にいながら全国の旨いもの巡り…なんて素晴しい国なのだろう。 おかげで今まで名前も聞いたことのなかった産品がネットを通じて入手でき、自分一人食通になったのかと錯覚せんばかりだ。

 そして(昔旅したあの地方のあの和菓子が忘れられず、もう一度食してみたい)と希望していた方などには、そんな夢をかなえてくれる救いの神だろう。 だがここで少しだけ考えてみよう、はたしてそれが我々に本当の豊かさを与えているものなのかを。

 ビニール・ハウスの促成栽培や品種の改良と地球の反対側からの輸入などによって、生鮮食料品は年間を通じていつでも手に入るようになった。 これでさえ旬を知る季節感の喪失と、本当の旨さの入り口を塞いでしまっているのに、なんと節操のないことを考えているのかと虚しくなるばかりだ。

 食べ物のおいしさとは、そのモノがもつイロカタチ・ニオイ・アジだけではなく、食する環境に大きく依存している。その土地の気温・湿度・空気から水の味・ph、周囲の自然環境まで密接なかかわりをもって構成されている訳で、同じものを別の土地に瞬間移動できたとしても同じ味は存在しないのだ。

 そのような状況下で食品の評価をしようなどもってのほか、生産者に失礼極まりない。 無知な珍しもの好きがたまたまカネを手に入れてしまったために、商人もそれ相手の商売に精を出し、勘違いの連鎖が筋違いの知識だけを増長させている。

 

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2007年6月 3日 (日)

利便性の功罪(4)

 飽食の時代、と言われて久しい。 食糧自給率のワースト・トップクラスの国がである。 しかもそれは悪化の一途をたどっているのだ、皮肉な笑いがこみあげてくる。

 “飽食”というコトバはいかにも豊かな食生活を連想させるが、我が国の実態はいささかというよりも全く乖離した事実しかない。 日々口にする食品の60%以上が海外からの輸入品に占められており、しかもそれらは低コストで生産された基幹食糧なのだ。 実に恐ろしい実態なのである。

 にも関わらず、我々は捨て続けている。 スーパーやコンビニで売られる弁当や総菜、はてまた学校給食や外食産業によって廃棄される食糧の総量は、飢餓に苦しむ某発展途上国の食糧事情を簡単に好転させるだけのものがあるという。 当然そのコストは可食部分に上乗せされ、本来対価として支払うべき価値との差異が顕著になっているはずだ。 なぜ誰もこの部分に触れないのであろうか。 今まではそれでよかったかもしれない、いや良かったわけではないのだが、無能官僚や役人にダマされていた我々にも非がないとも言えなくはないからだ。

 モラルから始まり食育の問題まですべて一からの出直しを覚悟しなければならないが、先に述べたように物々交換=等価交換の原理をしっかり教育することが肝要かと思う。 第一に食材の生産者に対する感謝が足りない。 第二に加工・提供者に対する尊敬がない。 第三に生きて食することへの喜びと希望が薄い。 これだけである。

自分が行けない遠くから獲物を捕ってきてくれてありがとう、自分が作れないものを加工・調理してくれてありがとう、という気持ちが「食」への認識を変えるであろうし、明日への糧となるのだから。 他人が苦労して造り上げた価値はそんなに安い対価で支払われるべきではないことに、早く気づかねばならない。

 

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2007年6月 2日 (土)

利便性の功罪(3)

 食品や飲料を保護するパッケージやボトル。 これらにも我が国独特の商業的慣行が横行している。
古来より伝承されている“相手への畏敬の念を込めた美しい包装”や“自然の素材を生かしたムダのない容器”のことを指しているのではない。

 原油産出国のアメリカをマネた発泡スチロール製のファーストフード容器、メーカーごとに異なる飲料のガラス瓶やPETボトル、ビニール袋の中でさらにビニール袋で個包装された菓子…。キリもなく浮かび上がる無駄の数々。

 …確かに便利で、しかも楽しい。

 清潔にパッケージされた商品は、買い物袋が汚れたり衣類に付着して異臭を発したりといった心配もなく、家に帰ってくれば何もせずにそのまま冷蔵庫に収納できる。 何の工夫や苦労をしなくても賞味期限までは安心して保管でき、そのまま捨てることが可能だ。 一度その恩恵に預かれば麻薬的な快楽に溺れ、そして後戻りは困難になる。 分かっていても本当に便利で楽なのだ。 自分で稼いだカネだ、どう使おうと自由だろう、という論理も間違ってはいない。

 EUでは近年エコロジーへの取り組みが更に強化され、特にエネルギーの供給に関しては官民が一体となって推進している。 が、これらは昨日今日に始まったことではない。 すでに何十年も以前から(日本が高度経済成長によってヨーロッパ社会を追い抜いた、と浮かれていた時代から)経済の成長よりもその基礎基盤の整備に重点を置き、現在の繁栄の礎としている。 その結果は教育の水準や社会福祉の高度化をも同時に果たし、我が国が再びそのレベルにまで押しあがるのは果てしない困難を乗り越えねば無理であろう。

 スーパーのレジ袋廃止や買い物カゴ持参といった「ちょっとした不便」をリトマス紙のように扱っているが、政府も企業もこうした取り組みを一気に拡大して法制化しなければ、我が国の「食」に明日はない。
 事なかれ主義の官僚には、とうてい解決不可能な問題でもある。

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2007年6月 1日 (金)

利便性の功罪(2)

 新商品のサイクルというものがある。 大型耐久消費財の代表である自動車は、欧米に比べて短いとはいうものの数年の間をおいて発表されているし、衣料品も年毎の発表と相場は決まっている。

 そうしたものと直接比較するのは間違いかもしれないが、近年の食料品事情はどうしても納得が出来ない。
特に顕著なものはビールと即席めんだ。 春夏秋冬の各季節限定に始まり、ご当地バージョンやら有機やら無農薬、カロリーカットにプリン体云々…とうてい覚えきれない種類と量が数か月おきに出ては消え出ては消えしているビール。 おまけにこれらに“発泡酒”と“リキュール(第三のビール)”が加わり、良い表現ならば百花繚乱、悪く言えば無間地獄状態にある。

 ビールメーカーはシェア争いを勝ち抜く戦略として他社に先駆けた嗜好の先導を狙い、消費者もまた選択肢の広がりと解釈して好意的な受け止め方をする。
 こんな滑稽な消費構造が蔓延しているのはこの国だけだ。 開発コストと広告宣伝費、派手な店頭販売イベントとプレミアグッズとやらの添付。
 それらはレギュラー商品の販売原価に反映され、欲しくもない商品のツケ(消費者の興味本位な要求)として余分な代金を支払わせているのだ。

 即席めんも似たようなものだ。 結局は定番商品のみが生き残り、去年販売された商品名などは誰も記憶にない。 常時こんな様が繰り返されているのである。

 新商品がなければ売上は果たして落ちるのだろうか。 答えはノーである。 従来の目移りするような売り場環境に慣れてしまった消費者からは一時苦情が殺到するだろうが、それも慣れてしまえば同じことでメーカーは「食」のリーダーたる自信と誇りを持って無視をすればよろしい。 やがては賢い消費者の支持が得られるはずだ。

 ビールにしろ即席めんにしろ看板商品で食っていけないようならば、それはその商品が良くないからなのであって、大いに反省し改良に努めるべきであろう。 社会に対して責任を持て、ということだ。

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2007年5月31日 (木)

利便性の功罪(1)

 狩りに出かけ獲物を得て帰り、小さな単位社会の中でそれを分け合って食料とする。 あるいは野山を切り開き作物を育てては収穫する、そんな生活が全てだった古代。 獲物に逃げられることもあったであろうし、天候の具合が植物の生育を阻むことも少なからずあっただろう。
 現代社会はそうしたリスクを負わずに容易な糧食の確保が可能になった。 冷凍食品からレトルト・パウチ、カップ麺などスーパーに買い物に出かければ、ありとあらゆる加工食品があふれている。

 だが畜産業・漁業・農業いずれをとってみても、収益を得る基本的な構造は古代と同じである。 自然と共に生き、逆らうことのできない大きな法則によって支配されている。 見方によっては一番割の合わない職業かもしれないが、それも人類の知恵と技術の発達が養殖や品種改良といった成果を生み、リスクの細分化を可能にした。    ただそのリスクは消滅したわけではなく、自然界の法則は現在も生き続けており様々な形で我々の生活に影を落としている。

 もともと文明は食糧の安定した確保のためだけに発達していた。 他の生物種に比して高等だったとはいえホモ・サピエンスとて生物であり、生まれ・食い・成長し・絶えてゆくだけである。 その知性の発達と蓄積が生命体の存続に必要なエネルギー確保を合理的な形で文明化し、繁栄を築き上げてきた。
 個体の生存率が格段に向上した人類は、次々と別の文明を生み出しやがて文化も創造し始める。 自然界のリスクから距離を置けるようになり、そこから解放されたと勘違いした人類はやがて自らの欲望と無謀な夢のために地球の破壊活動に手を染め始めている。

 温暖化や異常気象の頻発、人為的な種の絶滅といった問題はここ数年注目を集め、各国の機関がその対策と解決のために奔走していると聞く。 利便性の追求は我々の文明・文化の起点でもあり、その恩恵を我々自身が享受しているのであるが、同時に現在人類が内包する諸問題の出発点もそこにある…というのがこのチャプターの要旨である。 

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